我が国は,諸外国と比べて,覚醒剤等の薬物を使用した経験のある人の比率が相当に低く,一般人口における薬物汚染の程度は小さい(7-7-1-1表参照)。しかしながら,薬物が使用者の精神・身体に与える影響は大きく(次章参照),薬物の使用が他の犯罪を引き起こし得ること,薬物の密売による利益が暴力団の資金源となっていることなどを考えると,薬物犯罪の撲滅は重要な課題であると言える。
近年,刑法犯を中心に,犯罪の認知件数が減少の一途をたどっているが,薬物犯罪に目を向けると,薬物犯罪の中で最も検挙人員の多い覚醒剤取締法違反については,検挙人員が減少傾向にあるものの,令和元年においても8,730人といまだ高い水準を維持している一方(7-4-1-2図参照),若年層を中心に大麻取締法違反の検挙人員が急増している(7-4-1-5図参照)。また,覚醒剤取締法違反の出所受刑者の5年以内再入率は,窃盗と共に,他の罪名の出所受刑者と比べて高く(5-2-3-8図参照),再犯防止対策の観点からも,薬物犯罪への対応は急務である。
我が国では,犯罪対策閣僚会議が随時開催する薬物乱用対策推進会議において,薬物乱用防止対策を策定し,関係各省庁が連携してその推進に当たっている。「第五次薬物乱用防止五か年戦略」(平成30年8月薬物乱用対策閣僚会議策定)では,三つの視点,すなわち,<1>国際化を見据えた水際を中心とした薬物対策の強化,<2>未規制物質・使用形態の変化した薬物への対応の強化及び<3>関係機関との連携を通じた乱用防止対策の強化に基づき,五つの目標,すなわち,<1>青少年を中心とした広報・啓発を通じた国民全体の規範意識の向上による薬物乱用未然防止,<2>薬物乱用者に対する適切な治療と効果的な社会復帰支援による再乱用防止,<3>薬物密売組織の壊滅,末端乱用者に対する取締りの徹底及び多様化する乱用薬物等に対する迅速な対応による薬物の流通阻止,<4>水際対策の徹底による薬物の密輸入阻止並びに<5>国際社会の一員としての国際連携・協力を通じた薬物乱用防止が掲げられ,種々の施策が推進されている。刑事司法分野では,28年に刑の一部執行猶予制度の運用が開始されたほか(本編第3章第8節3項参照),刑事施設や保護観察所等では,薬物事犯者に対する処遇や治療・支援の充実が図られている(同編第5章各節参照)。また,薬物事犯者の再犯防止や社会復帰に向けた取組は,「薬物依存者・高齢犯罪者等の再犯防止緊急対策~立ち直りに向けた“息の長い”支援につなげるネットワーク構築~」(同年7月犯罪対策閣僚会議決定。第5編第1章第1節参照),「再犯防止推進計画」(29年12月閣議決定。同章第2節2項参照),前記「第五次薬物乱用防止五か年戦略」等に盛り込まれ,着実な進展を見せている。
法務総合研究所では,平成期以降においては,平成7年版犯罪白書特集「薬物犯罪の現状と対策」で薬物犯罪について取り上げ,その後も,折に触れて,薬物犯罪の動向や薬物事犯者の処遇・再犯防止対策を紹介してきた(法務総合研究所が行った薬物犯罪及び薬物事犯者に関する近時の主要な研究は,7-1-1表のとおりである。)。今後の薬物犯罪対策及び薬物事犯者の処遇・再犯防止対策を立案・実施していくに当たり,薬物犯罪の動向や薬物事犯者に対する処遇・再犯防止対策の現状を紹介するとともに,覚醒剤取締法違反による入所受刑者を対象に実施した特別調査を通じて明らかとなった薬物事犯者の特性等に関する資料を提供することが必要かつ有益であると考えた。
そこで,本白書では,本編において,「薬物犯罪」と題し,薬物犯罪の動向,薬物事犯者の処遇や再犯防止に向けた取組の現状を紹介するとともに,薬物犯罪についての再犯防止対策の前提となる実態把握に資する基礎資料を提供することとした。
本編の構成は,次のとおりである。
まず,第2章では,法令により所持等が規制されている薬物について,その精神及び身体に与える影響等について概観する。
第3章では,我が国における薬物関係法令の変遷について概観する。
第4章では,警察,検察,裁判,矯正及び更生保護の各手続段階における薬物犯罪・薬物事犯者の動向等を概観し,薬物事犯者の再犯・再非行についても分析する。
第5章では,検察,矯正及び更生保護の各手続段階等において,薬物事犯者に対して行われている処遇や治療・支援の現状を紹介する。
第6章では,法務総合研究所において,薬物事犯者の諸特性について多角的に把握し,その特性等に応じた効果的な指導及び支援の在り方の検討に役立てるために実施した薬物事犯者に関する特別調査の内容や同調査によって明らかとなった事項について紹介する。
第7章では,国際的な薬物の使用,生産及び不正取引の状況並びに国際的な薬物統制の状況を概観する。
最後に,第8章では,薬物犯罪と薬物事犯者を巡る現状と課題を総括し,薬物犯罪の防止や薬物事犯者の再犯を防止するための方策について検討する。
なお,本編においては,特に断らない限り,人が乱用することにより保健衛生上の危害を生ぜしめるおそれのある物として法令で規制されているものを「薬物」と,「薬物」に係る犯罪を「薬物犯罪」とそれぞれいうものとする。我が国においては,薬物犯罪として,覚醒剤取締法,麻薬取締法,大麻取締法,あへん法,毒劇法,医薬品医療機器等法,麻薬特例法の各違反の罪並びに刑法第2編第14章のあへん煙に関する罪を対象としている。しかしながら,本白書作成に当たって参照した統計又は資料によっては,これらの罪の一部に関して数値を得られない場合があったほか,これらの罪の中には,検挙や処遇の各段階において取り扱われる件数・人員が薬物犯罪の他の罪と比較して少ないものがあるため,次章以降で薬物犯罪の動向等を取り上げる際には,薬物犯罪の対象である全ての罪について言及するのではなく,必要に応じ,そのうちの主要な罪について言及することとしている。