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2 非行少年の処遇 (1) 少年検察及び審判
少年事件の処理に関する検察の機能は,戦前と戦後では大きく異なる。旧少年法等では,検察官は起訴・不起訴を決定し,不起訴とする者で保護処分相当と認めるものを少年審判所に送致するものとされていたのに対し,戦後の現行少年法では,家庭裁判所が保護処分にするか刑事処分にするかを決定し,刑事処分相当として検察官に送致した場合に限って,検察官は公訴を提起することができ,また,原則として起訴の義務があるとされている。また,旧少年法では,少年は18歳未満であり,刑事責任年齢である14歳以上であれば,刑事処分に付すこともできたが,現行少年法では,少年は20歳未満であり,送致の時に16歳以上で,禁錮以上の刑に当たる罪を犯した者でなければ,刑事処分相当として検察官に送致することができないなどの制約がある。また,旧少年法の少年審判所は,行政機関であり,保護処分に関する審判を行うほか,保護処分の執行及びその監督を行う機能が与えられていた。一方,現行少年法での家庭裁判所は司法機関であり,審判により保護処分等の要否を決定し,保護処分の執行は行政機関が行うこととされている(第4章第2節1,2(1)及び(2)参照)。 (2) 少年審判所及び家庭裁判所の事件処理 旧少年法の保護処分の規定は,その施行が当初一部の地域に限定され,それが徐々に拡大されて,昭和17年に全国に適用されるようになり,これに応じて少年審判所の数も増えていった。少年審判所の資料によると,戦前の元年から10年までは,審判不開始が総数の64%以上を占め,保護処分は30%ないし35%であったが,その後,保護処分が増加し,18年から20年までは審判不開始が20%未満,保護処分が80%以上となっている。また,検察官が刑事処分相当として起訴した少年や起訴猶予にして少年審判所に送致しない少年も多数に上っていた。戦後の交通関係業過及び虞犯を除く一般保護事件の家庭裁判所の終局処分を見ると,審判不開始及び不処分は,26年の65.7%から起伏を示しながら増加して4ε年以降は90%前後となり,保護観察が26年の18.8%から62年の7.5%に,少年院送致が26年の9.0%から62年の2%台に,検察官送致は26年の5.6%から62年の0.5%に,いずれも起伏を示しながら減少している。このように,法制が異なるものの,戦後は,戦前と比べて,審判不開始及び不処分が多く,保護処分を含む保護的措置が中心となり,刑事処分は著しく少ないといえる(第4章第2節2(2)参照)。 (3) 少年の刑事裁判 次に,家庭裁判所が刑事処分相当として検察官に送致した事件(送致事件)の処理状況を見ると,送致事件のほとんどが交通事犯であり(昭和63年では98,1%が交通事犯),起訴人員の95%以上が略式(即決)手続で処理されており,40年以降の公判請求の比率はおおむね3%前後となっている。通常第一審有罪人員中の少年は,戦前は年間3,000人前後であり,戦後は21年に約1万7,000人で,終戦直後の混乱期に犯罪を犯した多数の少年が刑事処分を受けているが,その後は減少して30年からは年間1,000人ないし2,000人台となっている(第4章第2節2(3)参照)。 (4) 少年鑑別所 戦後の昭和24年に発足した少年鑑別所は,非行少年の収容とその資質の鑑別を行う施設として,鑑別業務等の確立・改善を図ってきた。少年鑑別所の新収容人員は,24年の約1万6,000人から増加し,26年に過去最高の約4万1,000人に達した後,警察の少年検挙人員の推移に平行して増減を繰り返し,63年には約1万9,000人となっている。 少年鑑別所は,少年法で期待されている非行少年の科学的処遇を実践するために人間行動科学活用の重要性を標ぼうし,集められた資質鑑別技官は,専門家集団を形成するところとなり,少年鑑別所においてのみならず,少年院や行刑施設にも赴いて,分類処遇制度の確立や被収容者処遇の科学化を促進することなどに寄与してきた(第4章第2節3参照)。 (5) 矯正院及び少年院の処遇 矯正院法が大正12年に施行され,二つの矯正院が東京,大阪に誕生した。その後,旧少年法の保護処分の規定の施行地域の拡大につれて施設も増加し,保護処分の規定が全国的に施行された昭和17年には,矯正院が7庁となっている。矯正院の新収容者数は,17年には607人にすぎなかったが,短期錬成制度の実施により急増して19年には約4,100人に達しており,戦後は,新収容者は,21年の約1,900人から急増して23年には約3,000人となっている。24年の少年院法の施行により矯正院は少年院となったが,少年院の新収容者は,少年法の適用年齢が20歳に引き上げられた26年には約1万1,000人となり,その後は減少し,49年に約2,003人と最低を記録し,50年がら再び増加したものの,60年から減少に転じ63年には約4,800人となっている。このように,少年院の新収容者は,戦前と比べて激増したが,最近では,戦前の19年当時の矯正院の収容人員と余り変わらなくなっている。 次に,矯正院及び少年院での処遇を述べると,矯正院の処遇は,性格を矯正するため,厳格な規律の下で教養を施し,生活に必要な実業を練習させることとされていた。戦時中には,一時不良性の軽微な者も収容して,短期間の錬成の後,民間の軍需工場へ出業させる短期錬成制度も行われた。戦後,現行の少年院法の下で,教科教育,職業補導,生活指導などを中心として,処遇の整備充実が行われてきた。さらに,昭和52年には,処遇の個別化や収容期間の弾力化及び各施設の処遇をも特色あるものにすることなどを中心とした処遇の抜本的改革が実施された。また,処遇区分として短期処遇と長期処遇が設定されるとともに,前者は一般短期処遇と交通短期処遇に,後者は生活指導,職業訓練,教科教育,特殊教育,医療措置の5種類の処遇課程にそれぞれ細分されている。さらに,処遇の内容・方法及び成績評価に関しても,新たな処遇技法の開発・普及が行われたり,教育課程の運用上の統一的な基準が順次整備されるなど,矯正教育の一層の充実が図られてきている(第4章第2節4参照)。 (6) 少年刑務所の処遇 少年新受刑者は,戦前はおおむね年間1,000人未満であったが,戦後は3,000人を超えたものの,昭和20年代後半から減少を続け,最近では年間100人前後となっている。これにより,最近では自由刑の実刑に処せられる少年が非常に少なくなっていることが分かる。新受刑者の罪名別構成比を見ると,窃盗は,元年から20年代初めまでほぼ70%以上を占めていたが,その後は減少して最近では20%前後となっている。窃盗に代わって業過が30年代半ばから増加し,最近では30%前後を占め63年には約34%となっている。 少年刑務所での処遇を見ると,戦前の少年受刑者に対する教育は,義務教育段階を中心とした学科教育や農業・工業等に関する知識・技能等を授ける実習教育から成っていた。戦後は,教科教育,職業訓練及び生活指導を中心として受刑者の社会復帰のための処遇が活発に実施されている(第4章第2節5参照)。 (7) 少年の保護観察 少年審判所が言い渡した「少年保護司の観察」処分の数は,昭和元年の約1,000人から19年の約6,000人まで増加し,戦後の23年には約8,500人と最多記録となっている。現行少年法が施行された24年以降の保護観察処分少年の受理人員は,26年には約2万4,000人となり,その後一時減少したものの増勢に転じて,41年には約3万人となっている。その後,再び減少し始め,49年に約2万人になった後,交通短期保護観察の導入により,52年から急速に増加し,54年からは年間5万人を上回り,58年以降はおおむね7万人を超えている。 矯正院からの仮退院者は,矯正院法が施行されていた昭和23年以前においては,22年の83人が最も多く,100人を超えることはなかった。少年院法及び犯罪者予防更生法の制定以後においては,少年院の仮退院者は,27年に約9,700人を数えたが,以後次第に減少し50年には約1,600人になった。その後,少年院の短期処遇課程の導入等の影響により60年の約5,600人にまで増加したが,63年には約4,800人となっている。 仮釈放者及び刑の執行猶予者に対する保護観察の制度は,先に述べたように,戦前の旧少年法により,18歳未満の少年についてのみ実施されていたものであるが,戦後の法改正により成人・少年を問わず一般に適用されるようになった。少年に対する保護処分として始まった制度が,成人をも含む一般の刑事政策上の制度へと発展してきたものである。戦後は,家庭裁判所が保護観察処分に付した少年の数は,飛躍的に増大し,殊に集団処遇を中心とする交通短期保護観察が導入された昭和52年以降において,その傾向が顕著である。その反面,近年では,仮出獄者に含まれる少年の比率は0.1%以下,保護観察付執行猶予者に含まれる少年の比率も2%前後と極めて少なくなってきているが,これは,少年に対する保護処分を含む保護的措置の広範な適用に伴い,少年を刑事処分に付することが少なくなってきたことによる(第4章第2節6参照)。 |