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4 少年院 (1) 処遇の変遷
ア 矯正院(少年院)の誕生とその処遇 矯正院法は,大正11年4月17日に公布(12年1月1日施行)され,二つの矯正院が,東京と大阪に初めて誕生した。その後,保護処分の実施地域の拡大につれ施設の数も次第に増加したが,昭和17年に保護処分が全国的に実施されるに至った時には,矯正院は,東京,大阪のほか,名古屋,福岡,広島,仙台及び札幌にそれぞれ設置されており,合計7庁であった(法律上は「矯正院」であるが,各施設の名称としては,多摩少年院,浪速少年院など「少年院」の名称が用いられていた。)。 矯正院法によれば,矯正院は,国立の施設であって,少年審判所から保護処分の一つとして矯正院送致処分を受けた者及び旧民法882条の規定(親権者の出願)により入院の許可があった者を収容するところとされ,その収容は23歳を限度とするものであり,矯正院送致処分を受けた者については,少年審判所の許可を受けて,執行目的を達したときには退院させ,また,6か月経過後は条件を指定して仮退院させることができることとなっていた。矯正院は,男女の別に従って施設を設けることとなっていたが,実際には男fを収容する施設のみで,女子の施設は昭和23年まで設置されなかった。 収容者に対する処遇は,性格を矯正するため,厳格な規律の下で教養を施し,生活に必要な実業を練習させることとされ,その教養の付与については,中学校及び実業学校程度以下の学校に準じて,教育課程や教科科目を定めたり教科用図書を選定することになっていた(大正12年施行の矯正院処遇規程参照)。実際の処遇の状況については,乏しいながらも現存する資料を総合すると,各施設においておおむね次のような処遇が実施されていた。すなわち,学科教育では,収容者の知能や学力に応じて学級編成がなされ,指導には専門の職員が当たっていた。実業教育では,農業,園芸,木工,印刷などの種目について実施され,それぞれの製作した製品を一般に展覧したり販売することも行われた。また,少年が生活する寮舎における生活指導が教育の中心と考えられ,厳格な規律の下での生活のほか,寮長等の日常生活に関する役割分担を決めるなどの自治的活動も行われた。少年の在院期間は,平均しておおむね2年前後で,かなり長期であった。 なお,矯正院の内部組織は,院長の下に,庶務課,第1課(主に学科及び実業教育を担当),第2課(主に規律の維持,生活指導及び入・退院の事務を担当)及び第3課(主に医療・衛生を担当)の各課が置かれていた。 イ 戦時体制下の処遇 昭和18年には,勤労青少年輔導緊急対策要綱(閣議決定)を受けて,保護処分の運用の基準を変え,不良性の軽微な者をも矯正院にも収容できることとし,これら収容者に対して,2か月の短期間の錬成ののち,民間の軍需工場へ出業させる短期錬成制度が実施された。このため,その短期錬成に適さない非行性の進んだ者は,仙台少年院に収容することとされた。短期錬成制度における処遇は,精神訓話や軍事教錬など精神的・身体的鍛錬を主体としたものであった。 ウ 戦後の処遇の発展 (ア) 現行少年院法の制定 短期錬成制度は,終戦とともに廃止され,従来の処遇が復活したが,この時期には,非行少年の激増により多数の収容者を抱えることとなり,新たな施設として,昭和21年に1庁,22年に4庁,23年に8庁の矯正院がそれぞれ設置され,物資の欠乏や食糧難などの困難な状況の中で,新しい時代の処遇の模索がなされた。 昭和23年7月15日には,現行の少年法の制定と同時に,矯正院法に代わって現行の少年院法が公布(24年1月1日施行)された。少年院法は,矯正院法と比較すると,処遇に関して次のような特色を持っている。[1]少年院を矯正教育を授ける施設であるとして,その教育的性格が法文上明確にされ,また,教科並びに職業の補導,適当な訓練及び医療を授けるとして,その教育内容が規定されたこと,[2]年齢,性別,犯罪傾向の程度及び心身の状況に応じて,初等,中等,特別及び医療の4種類の少年院を設け,分類収容の原則を明示したこと,[3]教科教育のうち,特に義務教育の保障を掲げたこと,[4]収容者の進歩改善の程度に応じて順次向上した取扱いをするなどの段階処遇の制度を導入したことなどである。 なお,少年院の内部組織にも変更が加えられ,院長の下に,次長,庶務課,教務課(実際に少年の教育を担当),分類保護課(少年の入・退院及び分類・調査を担当)及び医務課が置かれることとなった。その後,昭和63年4月には,少年鑑別所と同様に,教育学,心理学,社会学等の高度な知識や経験を有する専門職員が一体となって教育活動を実施できるようにするために,教務課と分類保護課を統合して教育部門とし,首席専門官1名及び複数の統括専門官,専門官等を配した専門官制度が導入された。 (イ) 教育課程の整備・充実 少年院法が施行された昭和24年に,矯正院として設置されていた20庁を新法による少年院としたほか,新たに8庁が設置された。その後も収容者数が増加を続けたため20年代末までにさらに28庁が設置されて,全国で合計56庁となった(なお,その後,施設の新設・廃止等を経たのち,63年12月31日現在では54庁である。)。しかし,施設の多くは少年保護団体の施設や旧軍事施設等の転用であったため,物的設備は不十分なものであり,過剰収容などの事情も重なり,管理運営上の困難な状態が30年代まで続いた。 こうした状況においても,昭和20年代半ば以降,職業補導,通信教育,視聴覚教育,篤志面接指導等に関する運用通達が発出されるとともに,教科教育及び職業補導に関する教育実験などの新たな試みがなされた。また,33年には生活指導に関する通達が発出された。それによると,生活指導は,少年院における矯正教育の基盤となる重要な活動であると位置づけられ,少年の個性を理解し,生活の具体的な場面に即した指導を通して,各自の個性を伸ばし,社会性の発達を図ることを目標とするものとされたのである。30年代の後半には,少年院の処遇を一層効果的なものとするため,各少年院ごとに,職業訓練,教科教育又は体育などをそれぞれ重点的に実施する施設処遇のいわゆる特殊化・専門化の試みがなされた。 また,少年院では,木工,板金,溶接,電気工事等の種目の職業訓練を実施していたが,これらは,昭和38年から職業訓練法(60年からは職業能力開発促進法)に基づく公共職業訓練として順次正式に認められるようになり,訓練修了者に対しては労働省職業訓練局長名(60年からは職業能力開発局長名)の職業訓練履修証明書の交付がなされ,少年の社会復帰に際しての大きな力となって現在に至っている。 昭和40年代に入ると,収容者が減少して過剰収容の状況が解消されたこともあって,処遇の充実が図られ,収容少年の非行性,資質,環境上の問題などに対応した,いわゆる処遇の個別化が図られるようになった。また,この時期には,急増する交通事犯少年に対して短期間で処遇する試みがなされ,さらに,40年代後半には,それほど非行性の進んでいない少年に対して比較的短期間で処遇する試みもなされるようになった。 (ウ) 少年院処遇の新たな展開 昭和52年には,「少年院の運営について」の通達が発出された。これは,それまでややもすると,少年の収容期間が1年程度に固定化しがちであったことや処遇内容が画一的になりがちであったことなどに対する反省から,処遇の個別化,収容期間の弾力化,各施設における処遇の特色化を図ることのほか,少年院における施設内処遇と仮退院後の保護観察との有機的一体化を図ること,関係諸機関や地域社会との連絡協調を一層強化することなどを基調とするもので,戦後の少年院処遇制度における大きな改革であった。 これによると,特に処遇の個別化を一層徹底するため,収容少年の非行性,資質,処遇上の必要性などに応じた処遇類型を新たに設定した。すなわち,基本的に少年院の処遇を短期処遇と長期処遇とに分け,新たに制度化された短期処遇については,これを更に一般短期処遇と交通短期処遇に区分した。長期処遇については,生活指導,職業訓練,教科教育,特殊教育,医療措置の5種類の処遇課程を新たに設けた(第3編第2章第4節1の(1)参照)。処遇内容・方法に関しては,施設ごと,処遇課程等ごとに基本的処遇計画を作成すべきこととし,また,教育課程を,新入時教育,中間期教育,出院準備教育の3期に分かち,それぞれにふさわしい教育内容・方法を発展的,段階的に編成することとした。さらに,個々の少年について個別的処遇計画を作成し,個人別に達成させるべき事項を教育目標として定め,この目標を達成するために必要な教育内容・方法を系統的に配置することなどが規定された。 その後,昭和55年には,「少年院における教育課程の編成及びその運用について」及び「少年院成績評価基準について」の各通達が発出され,教育課程を編成する基準や,教育の実施結果を個人別に適正に評価する基準が示されるなど,少年院における矯正教育の標準的枠組みの整備が図られてきた。 具体的な処遇実践の方法に関しては,昭和56年,57年に法務省において「技法別指導手引書」(第一集,第二集)が作成され,作文,内省,読書,集会,役割活動などの指導のほか,心理劇,カウンセリング,自律訓練法,交流分析等の治療技法などの導入・普及が図られている。また,薬物濫用や車にかかわる非行などの問題行動に直接働きかけて非行性の除去を図ろうとする,いわゆる問題群別指導も実施されている。 また,一部の少年院においては,一般短期処遇の中学生について,学業の中断を避け,円滑な復学を図る措置として,在院中に帰省させて在籍校に通学させる方式が特修科等の名称で試行されるなど,関係機関との連携を図りながら,社会復帰を容易なものとするための努力が払われている。 (2) 収容状況の推移 ア 新収容人員等の推移 IV-56図は,矯正院及び少年院の新収容人員(付表28表参照)及び少年審判所・家庭裁判所における終局処理人員に対する矯正院・少年院送致決定の者の比率(以下本項において「送致率」という。)の推移を見たものである。新収容人員は,旧少年法下では,矯正院が全国に設置された昭和17年においては,607人にとどまっていた。18年から20年までは,短期錬成制度の実施により収容者が急増し,19年には4,144人に達した。終戦後には,浮浪少年等の増加といった社会情勢を背景として,新収容人員は,21年の1,862人から25年の6,868人へと増加し,少年法の適用年齢が20歳未満に引き上げられた26年には,1万1,333人で最高を記録した。以後やや減少したものの,29年から41年まではおおむね7,000人ないし8,000人台で推移したが,42年以降は急激に減少し,49年には1,969人で戦後最低の人員となった。しかし,50年からは再び増加傾向を示し,59年には6,062人となったが,その後は減少しながら63年の4,831人に至っている。送致率を見ると,17年以前はおおむね1%未満であり,かなり非行性の進んだ者が送致されていたと考えられる。26年から30年ごろまでは8%前後であったものが,その後はほぼ一貫して下降傾向を示し,49年に1.2%で最低となり,その後はやや上昇して,63年まで2%台で推移している。 IV-56図 矯正院・少年院の新収容人員及び少年審判所・家庭裁判所における矯正院・少年院送致率の推移(大正12年〜昭和63年) イ 新収容者の特性の推移矯正院法時代の収容者の特性については,統計資料が乏しいため詳細には分からないが,施設の断片的な資料等から推認すると,年齢的には,16歳,17歳の者が過半数を占め,非行名では,窃盗が大部分であった。また,義務教育未修了の者が相当数いるほか,実父母のいる者が半数をかなり下回るなど,恵まれない境遇の者が多かったと認められる。少年院法施行の昭和24年からは,公的資料が整備されているので,以下,これに基づいて少年院新収容者の特性を見ることとする。 IV-57図は,男女別に新収容者の年齢層別構成比の推移を見たものである。昭和26年以降は,男子においては,18歳以上の者が39年,40年に16歳・17歳の者よりも低率となったのを除けば,おおむね50%前後で最も高いが,46年に59.3%となった以降は減少傾向にあり,63年には49.0%となっている。次いで高いのは16歳・17歳の者で,39年,40年に40%を超え最も高かったのを除けば,おおむね30%台で推移している。また,14歳・15歳の者は,20年代から30年代はおおむね10%ないし20%台で推移し,その後減少して,40年代半ばには10%を下回った。40年代後半からはやや増加傾向を示し,10%ないし20%で推移している。女子では,各年齢層共に,増減を繰り返しながら推移しているが,16歳・17歳の者が29年,37年,38年,58年及び59年の各年を除きいずれの年次でも最も高く,20年代から30年代半ばまでは40%前後,その後はおおむね40%から50%の幅で推移している。14歳・15歳の者は,38年前後に40%近くなったのを除けば,50年まで10%から20%台で推移し,それ以後は増加傾向となって,59年に40%を超えたが,その後は減少して,63年では31.7%となっている。18歳以上の者は,38年から40年まで20%台であったのを除き,40年代後半までおおむね30%を超えていたが,その後はやや減少して20%台で推移している。 IV-57図 少年院新収容者の年齢層別構成比の推移(昭和24年〜63年) IV-84表は,男女別に非行名別構成比を,昭和25年からの5年ごとと63年について見たものである。まず,男子においては,窃盗が各年とも最も高いが,25年に77.4%であり,その後は変動はあるものの減少傾向を示し,55年以降は50%を下回り,63年には48.0%となっている。また,詐欺も同様に30年の4.3%から63年の0.3%に減少している。これに対し,業過及び道路交通法違反では,50年に顕著に増加し,55年以降両者で10%前後となり,また,覚せい剤取締法違反並びに毒物及び劇物取締法違反では,55年から両者で10%前後を占めているのが目立っている。強盗,恐喝及び強姦・強制猥褻では,ほぼ類似の傾向を示しており,おおむね35年,40年又は45年にそれぞれの比率が高まっており,強盗で45年に7.0%,恐喝で35年に13.1%,強姦・強制猥褻で45年に12.1%となったほかは,25年,30年及び50年以降は低率である。女子では,男子と同様,窃盗及び詐欺の減少が顕著であり,それぞれ25年に64.2%,7.2%であったものが,63年に17.2%,0.2%となっている。また,売春防止法違反も40年に10.9%であったものが,63年には0.2%に減少している。これに代わって,虞犯が増加し,40年以降非行名別構成比のうちで最も高く,40年から55年までは40%を超えていたが,60年には減少し,63年には若干増加して34.0%となっている。そのほか増加の見られるものは,傷害が25年に0.1%であったものが,63年に7.6%となっているほか,覚せい剤取締法違反並びに毒物及び劇物取締法違反では,55年から急増し,60年以降,両者で30%を超え,特に覚せい剤取締法違反は,虞犯に次いで最も高い比率を占めるに至っている。IV-85表は,新収容者の保護処分歴,教育程度及び保護者の構成比を,昭和25年からの5年ごとと63年について見たものである。保護処分歴では,男女共に保護観察歴のある者が最も高く,しかもおおむね増加傾向にあり,昭和63年には,男子では63.6%,女子では44.5%となっている。少年院歴のある者は,男女共に50年までおおむね減少し,男子では10%台に,女子では10%未満になったが,それ以後は増加し,63年には男子では24.1%,女子では14.2%となっている。 IV-84表少年院新収容者の非行名別構成比(昭和25年,30年,35年,40年,45年,50年,55年,60年,63年) IV-85表少年院新収容者の保護処分歴・教育程度・保護者の構成比(昭和25年,30年,35年,40年,45年,50年,55年,60年,63年) 教育程度では,義務教育未修了の者が,昭和25年に男子では79.0%,女子では84.7%であったものが,以後激減し,63年に男子ではO.O%,女子では0.2%となっている。これに対し,中学校を卒業した者は増加し,45年に男子では68.2%,女子では69.7%と最も高くなったが,50年から一時減少した後再び増加し,63年に男子では62.4%,女子では53.6%となっている。高校在学・中退及び高校卒業以上の者は,男女共に増加傾向を示し,両者の合計では55年に男子では39.9%,女子では32.0%となったが,その後減少し,63年に男子では27.1%,女子では22.2%となっている。我が国の高等学校等への進学率が49年以降は90%を超えていることと比較すれば,少年院収容者の教育程度は極めて低いことになる。保護者では,男女共に,保護者が実父母である者が増加し,昭和55年に男子では68.7%,女子では62.8%となったが,その後減少し,63年に男子では48.9%,女子では39.2%となっている。一方,「その他・不詳」の者(保護者が実親でない者及び保護者がはっきりしない者)は,25年に男子では29.1%,女子では30.4%であったものが,それ以降は減少し,55年に男子は4.6%,50年に女子は5.4%となったが,以後再び増加傾向を示し,63年に男子では16.9%,女子では22.0%となっており,少年院収容者の保護関係ではかなり不良な者が多いことが分かる。 |