前の項目   次の項目        目次   図表目次   年版選択
 昭和36年版 犯罪白書 第二編/第一章/一/1 

第二編 各論

第一章 起訴猶予,執行猶予および刑の量定

一 起訴猶予

1 序説

 検察官は,犯罪の嫌疑が認められたとしても,必ずしも,起訴の手続をとらなければならないものとはされていない。刑事訴訟法は,犯人の性格,年齢および境遇,犯罪の軽重および情状,ならびに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,不起訴処分にすることができるとしている。このように,検察官の判断で不起訴処分すなわち起訴猶予処分をすることができる制度を起訴便宜主義と呼んでおり,これに反して犯罪の嫌疑が認められるときは,起訴の手続をとらなければならない制度を起訴法定主義と呼んでいる。
 わが国では,大正一三年の旧刑事訴訟法によって起訴便宜主義が明文化されたが,明治二二年の旧旧刑事訴訟法のもとにおいても事実上ある程度起訴猶予が行なわれており,大正年代には相当活発に適用されていたから,起訴猶予の歴史は相当に古いということができよう。
 起訴猶予は,検察官が刑事政策上の立場から,諸般の事情,すなわち,犯人の性格,年齢,境遇といった主として犯人の危険性をあらわす要素や,犯罪の軽重,情状のような犯人の刑事責任に影響をおよぼす事情,さらには犯人の改悛とか示談の成立等といった犯罪後の情況を考慮して,必要ならざる刑罰をできるだけ避けようとするものであって,刑の執行猶予制度とほぼその目的を同じうするものということができる。しかし,起訴猶予は,刑の執行猶予と異なって,法廷という公開された場所で行なわれず,また,その資料も公開されることがないばかりでなく,起訴猶予に付するにあたっては何ら法的制限がなく,すべてが検察官の判断にゆだねられているのである。この意味では,起訴猶予は,検察官に与えられた強力な権限ということができよう。したがって,検察官が起訴猶予の権限を行使するにあたっては,特に慎重な配慮を要するものといわなければならない。しかし,起訴猶予は,もとよりこれを惜しむべきではない。起訴猶予に値するものに対しては,活発にこれが適用されなければならないが,その反面,その適用を誤り,起訴猶予に値しないものにこれを濫用すると,国民の規範的意識を低下させるおそれがあるとともに,被害者の立場を無視することになりかねないから,この権限を行使するにあたっては,検察官に,慎重な判断とともに高い識見と事案に対する鋭い洞察力とが求められなければならない。
 諸外国の立法例をみても,わが国ほど大幅に起訴猶予を認めている法制は少ない。多くの国々は起訴法定主義を採用しており,起訴便宜主義は例外的な場合にとられているにすぎないのである。たとえば,英米においては,起訴猶予制度は認められていないし,また,西ドイツでは,原則として起訴法定主義をとっているが,違警罪および軽罪についてのみ,例外的に起訴猶予制度を採用しているにすぎないのである。
 わが国では,検察官は,起訴するかどうかを決するにあたって被疑者を取り調べることを原則としている。とりわけ,起訴する事件においては,被疑者のみならず重要な参考人をも取り調べ,起訴の当否,供述の証拠価値の吟味を行なうことを常としている。このような慣行は,わが国独特のものといえるであろう。このような独特な慣行が,どうしてわが国にできあがったのであろうか。それは,明治四〇年ごろから大正の初めごろまでの間に徐々にできあがったものといわれているのであって,明治三〇年当時には重罪の無罪や,予審免訴率の合計が三〇%をこえる高率であったことの反省から,事前に十分取り調べて無罪となるような事件は,できるだけ起訴しないようにするという努力のあらわれといえるのである。
 検察官が起訴不起訴を決する前に,被疑者の取調を行なうということは,無罪をできるだけ避けようという目的だけからではない。起訴するにふさわしい事件を選んで起訴するため,換言すると,起訴に値しない事件を起訴猶予として真に裁判に値する事件だけをふるいにかけるために,その判断の資料を求める目的で行なわれるのである。このように,裁判にもち込む事件を選択するということは,刑事裁判の運用上きわめて重要なことであって,もしその選択を誤って起訴に値しないような事件を無批判に裁判におくり込んだとすれば,現行の訴訟手続では裁判所は破産状態に陥るであろうし,また,その選択を誤って起訴すべき事件を不起訴にし,いわゆる雑事件のみを起訴したとすれば,裁判所は自らこの誤った選択を是正することができず,起訴された事件だけを審判するにとどまるから,その裁判がいかに精緻で,かつ,情理を尽くしたものであったとしても,裁判の刑事司法的機能を果たすことができず,から回りにおわるおそれがあろう。この意味で,起訴猶予の運用は重要であり,特に慎重な配慮を必要とするものといえるが,このために,わが国独自の検察官による事前の取調が行なわれているともいえるのである。
 このように,わが国の起訴猶予制度は,諸外国に例をみない独自の運用がなされているが,以下主として統計面から,その運用状況をながめてみよう。