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 昭和43年版 犯罪白書 第三編/第四章/二 

二 裁判(科刑・執行猶予)

 III-6表は,明治四一年以降,刑法犯により,第一審で有罪の裁判を受けた者の科刑の状況を示したものである。有罪人員総数は,明治四一年の約七万人を別として,明治四二年から昭和一七年までの三四年間は,約八万人から約一二万人の間を推移して,当然のことではあるが,起訴件数ないしは,起訴人員の推移と,その傾向を同じくしている。その内訳をみると,懲役刑は,明治四一年から大正二年までの間は,毎年六万人を越えていたが,大正三年以降漸減し,大正一〇年から昭和四年までの九年間にわたって,三万人に達しない年が続き最も少ない大正一二年には,約二万四千四百人となっている。昭和五年は,刑法犯の検挙件数が,前年に比較して急増した年であったが,刑法犯により懲役刑に処せられる者も,三万人を越え,昭和八年から一三年までは,四万人前後となったが,その後減少して,昭和一七年の約二万九千七百人に至っている。一方,罰金刑は,明治四一年の約五千人から,翌四二年の二万六千人強,四三年の約三万五千人と急増している。これは,明治四一年一〇月施行された現行刑法が,単純賭博の法定刑を,罰金または科料とし,傷害の法定刑に,選択刑として,罰金または科料を加えたことなどの理由によるものであろう。罰金刑に処せられた者は,その後も増加して,大正六年には五万人を越え,懲役刑に処せられた者の数を,初めて上回り,翌七年には,有罪人員総数の五一・五%を罰金刑が占めるに至った。その後,昭和一七年までの間,罰金刑に処せられる者の数は,かなりの起伏はありながらも,増加の傾向を示し,また,有罪人員総数の過半数を,引き続き占めるという状態が続いたのである。科料も,明治四一年から四二年にかけて,一挙に七倍以上となり,その後二,三年間に急激に増加して,一万人を越え,大正七年まで高い水準を保っている。罰金の場合と同じく,現行刑法の施行によるものであろう。その後は,昭和八年から同一二年ころまでの間に,約八千人以上と増加した時期を除いては,おおむね,四千人前後から六千人前後の間を推移して,昭和一六年に至ったが,翌一七年には,約千四百人に減少をみている。死刑,禁錮,拘留については,実数がきわめて少ないので,その傾向をみることは困難であるが,大正時代以降において,拘留刑に処せられた者は,きわめてまれである。
 今次大戦後,刑法犯の有罪人員は激増して,昭和二三年の約二三万人に至り,その後,一五,六万人に減少したのち,昭和三〇年ころから増加を始め,昭和四一年の三八八,六三二人に達して,明治四一年以降の最高の数字となっている。ところが,懲役刑に処せられた者の人員は,昭和二三年に,約一五万二千人と,最高の数字を示した後は,起伏はありながらも,減少の一途をたどり,昭和四一年には,約六万三千人となったが,この数も,明治末年を別とすれば,戦前に比して,はるかに高い数字となっている。しかし,それが,有罪人員総数に占める比率をみると,昭和二三,四年ころには,懲役刑が約三分の二を占めていたものが,昭和三九年以降は,二割に達せず,昭和四一年には,わずかに,総数の一六・三%を占めるにとどまっている。これに対し,罰金刑は,右に述べた有罪人員総数の増減と,ほぼ同じ傾向を示し,昭和三一年には一〇万人をこえ,以後激増して,昭和四一年には,三一七,九五六人と,最高の数字を示し,総数に占める割合は,八一・八%にも及んでいる。戦後,罰金とともに増加したのは,禁錮刑に処せられた者の人員である。明治四一年から昭和一七年までの三五年間に,禁錮刑に処せられた者の数が,一〇〇人を越えたのは,わずかに五回しかないが,戦後は,昭和二三年に一四一人となって以来,急増を続けて,昭和四一年には,七,二六六人に達している。前記の戦前三五年間を通じて,禁錮刑に処せられた人員の総計が,二,六八九人に過ぎないことと比較するとき,その増加の激しさに驚かざるをえない。このような禁錮刑に処せられた者の増加は,各種の事故事件が,戦後多発したこと,ことに,最近十数年間の激増は,主として,自動車交通による業務上過失致死傷事件により,この刑に処せられた者が増加したことによるものであろう。罰金刑に処せられた者が,ここ十数年の間に激増したことも,禁錮刑の場合と同様,いわゆる自動車事故事件の増加により,業務上または重過失致死傷罪によって,罰金刑に処せられた者が,急増したことによるほか,比較的軽い暴力事犯に対しても,罰金刑の科せられることが多くなったことによるものと考えられる。罰金とは逆に,科料に処せられた者は,戦後,大幅に減少した。それでも,昭和二四年から同二八年までの五年問は,千人を越える年が続いているものの,戦前の水準には及ばず,その後も減少を続けて,昭和四一年のわずか一二人に至っている。刑法では二〇円未満とされていた科料が,罰金等臨時措置法により,昭和二四年から千円未満とされたが,さらにその後の貨幣価値の低落により,刑罰としての意義を,ほとんど失ってしまったことによるものであろうか。死刑については,凶悪な犯罪の続発した,終戦直後の数年間を除いては,おおむね減少の傾向にある。
 以上のような,刑法犯に対する科刑の変遷を,明治四四年以降,おおむね一〇年ごとに,それぞれの刑が,有罪人員総数に占める割合を図示して比較したのが,III-3図である。戦前,懲役の占める割合の漸減,逆に罰金の占める割合の漸増という傾向がみられたが,戦後の混乱期には,一転して,懲役刑の占める割合が増大したものの,その後,罰金刑の激増により,実数において戦前の水準を上回る懲役刑が,総数に占める割合ではかえって戦前のそれを下回るという現象をみせている。なお,刑法犯のほか,最近,急激に増加した道路交通法違反(道路交通取締法違反)については,そのほとんど全部が,罰金刑に処せられている。

III-3図 刑法犯一審有罪人員科刑別百分率(明治44,大正10,昭和6,16,23,30,40年)

 刑の執行猶予の制度は,その沿革については,第一章において,最近の運用の実態については,第一編において,それぞれ触れたところである。III-8表は,資料の関係から,あまり年次をさかのぼりえなかったが,大正六年以降,刑法犯により,第一審で有明懲役または禁錮に処せられた者のうち,執行猶予の言渡しを受けた者の人員と,後者の前者に対する比率(執行猶予率)を示したものである。昭和一七年までの戦前二六年間は,執行猶予の言渡しを受けた者の人員は,約二千五百人ないし約五千七百人で,執行猶予率は,大正六年の一〇・九%から,起伏はありながらも,漸次上昇し,昭和一七年の一八・九%に達している。ところが,戦後は,昭和二二年の刑法の一部改正により,執行猶予を言い渡すことのできる刑の範囲が拡張されたことなどの理由から,執行猶予の言渡しを受けた人員は,約三万三千人から約五万四千人と,戦前の数をひとけた上回り,執行猶予率は,昭和二三年の三五・二%から漸次上昇して,昭和四一年の五一・五%に至っている。