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2 処遇の推移 ここでは,終戦後の行刑施設における被収容者に対する処遇の推移について概観する。
まず,終戦から昭和20年代後半までの間は,いわゆる戦後混乱期の時代であり,行刑施設はかってない過剰収容と極端な物資不足の状況にあり,集団逃走,騒擾,暴動等が頻発した。このため,行刑当局は,過剰収容を緩和し,食料増産及び土地開発を促進するため,構外作業に受刑者を多数派遣するとともに,昭和21年1月には行刑の基本原理に関する通達を発出して,行刑運営の基礎を築くことに力を注いだ。同通達は,刑罰の厳粛性の確保とともに,被収容者の人権尊重,更生復帰の原理等を掲げた。 被収容者の人権尊重の思想の徹底は,戦後の行刑処遇の大きな特色の一つであり,それまで必ずしも十分とは言い切れなかった被収容者の人権保障に関する各種の措置が採られた。すなわち,昭和22年には日本国憲法の施行に即応し,暗室に拘禁する懲罰である重屏禁を事実上廃止したのをはじめ,23年には新刑事訴訟法の在り方に対応して被告人の弁護人との接見において,刑務官の立会を許さないこととするなどの処遇上の改善措置が図られた。 その後,終戦後の社会的混乱が次第に収まるとともに,行刑施設の規律秩序も回復し,行刑処遇の近代化に向けて努力が傾注されることとなった。 すなわち,まず,行刑処遇の目的である受刑者の矯正と社会復帰を促進するための分類処遇の組織化が図られた。この点において先駆的な役割を果たしたのが,昭和23年の受刑者分類調査要綱であった。同要綱は,科学的分類を前提として,受刑者の改善の難易,犯罪性,刑期,健康,年齢,性別等の細部にわたり分類基準を定めるなど,個々の受刑者につき最も適した指導,援助等を行う「処遇の個別化」の方向を目指したものであった。32年には中野刑務所が設置され,分類処遇の推進と拡充を図るための分類センターとしての役割を果たすこととなり,47年には前記受刑者分類調査要綱を発展させ,処遇の個別化による社会復帰を目指す分類処遇制度を定めた受刑者分類規程が制定されるなど,いわゆる行刑処遇の科学化が促進された。 次に,昭和22年の日本国憲法の施行に伴い廃止された宗教教誨制度に代わる,民間の宗教家による教誨制度の発足,28年の篤志面接委員制度発足に伴う部外の有識者による面接指導の導入,30年代後半からの交通禁錮受刑者の急増に伴う,これらの受刑者に対する開放的処遇の開始等,いわゆる行刑処遇の社会化を促進する諸施策が展開された。(本章第3節1参照) このような行刑処遇の近代化の動きは,行刑を規律する監獄法の改正のための検討を促すこととなり,法改正に向けた努力が長年にわたり続けられているが,一方において,昭和41年の監獄法施行規則の大幅な改正(本編第2章第3節1参照)をはじめ,各種訓令・通達の発出による被収容者の処遇水準の向上,受刑者処遇の改善のための努力が営々として進められている。 さらに,最近では,被収容者に対する食糧給与基準の見直しによる計画的な給与熱量の改善,日用品等の使用範囲や自費購入の範囲の拡大等の措置が図られるなど,被収容者の生活水準をはじめとする行刑処遇の内容は,飛躍的な進展を遂げている。 |