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 平成 元年版 犯罪白書 第4編/第3章/第3節/1 

第3節 更生保護

1 更生保護制度の形成

(1) 昭和初年の更生保護
 犯罪者・非行少年等を社会内において処遇してその更生を助ける活動は,昭和初頭においては,釈放者保護(刑務所釈放者,起訴猶予者,刑執行猶予者等の保護をいう。)と少年保護の二つの領域から成っていた。共に,明治以来その主要部分は民間有志の活動にゆだねられており,国は民間の釈放者保護団体に対し免囚保護事業奨励金を交付してこれを奨励するという段階にとどまっていた。また,少年保護の領域では,旧少年法の保護処分が,大正12年から,わずかに3府2県に適用され始めたばかりであり,広く全国に少年保護事業が行われるというには程遠い段階にあった。
 司法省では,大正9年10月に,司法大臣官房に保護課を設け,少年法の制定に備えて,少年の保護処分及びその実行に関する事項の調査に当たらせることとした。これが,刑事政策の進展の過程において,専ら更生保護をその所管とする機関が分化した起点であるといえよう。次いで,11年5月に,監獄局所管の「出獄人保護」を「釈放者の保護」と改めて,同課に移し,少年の審判矯正に関する事務と併せて所管させることとし,両者を総称して司法保護と呼ぶことになった。12年に旧少年法により設置された少年審判所は,非行少年に対する保護処分の決定などの審判を行う機関であると同時に,その保護処分を執行する機関でもあった。東京・大阪の両少年審判所に配置された国の専任の職員は,昭和2年度には,少年審判官,少年保護司を含めて45人であった。専任の職員のほかに,教育者,宗教家など民間の篤志家に,少年保護司の事務を委嘱する嘱託少年保護司の制度があった。専任の少年保護司は主として審判のための調査を行い,同法上の保護処分の一つである「少年保護司の観察」は,実際には主として嘱託少年保護司の担当するところであった。
(2) 司法保護制度の形成
 司法保護制度は,昭和10年代に入って急速に拡充された。まず,11年5月に思想犯保護観察法が公布され,同年11月から施行された。同法は,治安維持法違反の罪を犯した者を,保護観察審査会の決議により,保護観察に付することかできることとした法律であり,全国22か所に保護観察所が設置され,86人の職員が配置された。次いで14年3月,司法保護事業法が制定され,同年9月から施行された。同法は,これまで民間にゆだねられていた起訴猶予者,刑執行猶予者,刑執行終了者等に対する保護事業の経営を認可制とし,これに対する監督,奨励金交付,免税措置等について定めるとともに,その保護に当たらせるために,司法保護委員を置くこととした。15年11月には,司法保護委員の指導に関する事務をつかさどるために司法保護委員事務局が全国7か所に設置された。また,大正12年の旧少年法施行時には,3府2県にすぎなかった同法の保護処分適用区域は,昭和9年,11年,13年,16年と徐々に拡大され,17年からようやく全国に適用されるに至った。
 このような更生保護事業の拡充は,戦時体制下における国家的な必要に支えられていたところでもあり,処遇の目標として「臣民の本分を恪守せしむる」(司法保護事業法2条)ことが挙げられ,また,昭和16年ごろから,皇民錬成の一環として,少年保護団体等において保護少年に対して軍事教錬に範を採った各種の鍛錬が行われ,さらに,18年以降においては,短期錬成が導入されて錬成の短期化,強化が行われた。
(3) 近代的更生保護制度の形成
 終戦直後の昭和20年10月に,いわゆるポツダム勅令により,治安維持法,思想犯保護観察法等が廃止され,保護観察所は廃庁になった。その一方で,連合軍がその法令に違反した日本人をプロベーションに付し,監督を我が国の司法保護委員に行わせるなどの運用がなされた。連合軍の占領下にあって,司法保護関係法令の改正作業が始まり,同時に,21年,22年,24年と少年審判所,同支部の増設が行われ,少年保護の分野からの復興が始まった。
 法令改正作業の中から,まず,大正12年以来施行の旧少年法を全面的に改正した新少年法が生まれ,昭和24年1月から施行になった。次いで犯罪者予防更生法が同年5月31日に公布され,7月1日から施行されるに至った。同法は,犯罪をした者の改善及び更生を助け,恩赦の適正な運用を図り,仮釈放等の管理についての公正妥当な制度を定め,もって社会を保護し,個人及び公共の福祉を増進することを目的として制定されたものであり,新憲法の理念に照らして保護観察処遇の目標を示し,仮釈放者及び非行少年に対する保護観察制度を規定した。同法の施行とともに,更生保護行政を担う中央機関としては,法務府の外局として中央更生保護委員会が設置され,更生保護の実務に当たる地方支分部局として各高等裁判所所在地に地方少年保護委員会及び地方成人保護委員会が,さらに,地方少年・成人保護委員会事務局の事務を分掌する機関として各地方裁判所所在地に少年保護観察所及び成人保護観察所が,それぞれ設置された。中央更生保護委員会及び地方少年・成人保護委員会は,共に合議制の行政機関であった。
 犯罪者予防更生法の施行の当初にあっては,保護観察所は,戦前の司法保護事業法による司法保護団体及び司法保護委員の協力の下にその業務を運営してきたが,昭和25年5月に更生緊急保護法及び保護司法が施行され,司法保護事業法は廃止された。更生緊急保護法は,保護観察の対象とされない満期釈放者,起訴猶予者,執行猶予者などが保護を願い出た場合に,身体の拘束を解かれた後6月を超えない範囲内において,緊急の保護を行うことができることを定め,また,更生保護会の経営の認可,監督等について規定した。保護司法は,保護観察を行うとともに,犯罪をした者の更生を図るために世論を啓発し,犯罪の予防を目的として地域活動を行う保護司について規定したものである。これら犯罪者予防更生法,更生緊急保護法及び保護司法の施行により,現在の更生保護制度の基本的体制がほぼ整備された。
 昭和27年8月に中央更生保護委員会が廃止され,代って法務省の内局として保護局が置かれ,また,少年・成人別に設置されていた地方支分部局が統合され,仮釈放審理の機関として地方更生保護委員会が設置されるとともに,保護観察所は,委員会事務局の事務分掌機関ではなく,保護観察等の実施に当たる地方支分部局となった。
 その後,昭和28年12月施行の刑法等の一部を改正する法律により,保護観察付刑執行猶予に関する規定が改められた。この法改正は,刑の執行猶予の条件を緩和し,既に執行猶予中の者に対して再度執行猶予に付することを可能にしたもので,再度目の執行猶予者は必ず保護観察に付されることになった。さらに,翌29年7月施行の刑法改正により,初度目の執行猶予者についても裁量的に保護観察に付することかできることになった。同時に,これらの執行猶予者にふさわしい保護観察を実施するために,執行猶予者保護観察級が制定され,同じく7月から施行された。同法は,執行猶予者に対しては,保護観察の重点を補導援護に置き,仮釈放者等に比して遵守事項を緩和した保護観察制度を樹立した。
 また,昭和33年3月の売春防止法の一部改正(4月施行)により,補導処分の制度が新設されたことに伴い,婦人補導院からの仮退院中の者が保護観察に付されることになった。
 その後においては,立法上の保護観察種別の拡大はなされていないが,交通短期保護観察の導入など,実務のレベルにおける処遇の多様化が試みられている(本節3参照)。
 なお,昭和47年5月には,沖縄復帰に伴い,那覇保護観察所が発足し,全国の保護観察所は50庁となり,また,同地における仮釈放審理等の事務を迅速・適正に処理するために,九州地方更生保護委員会の合議体の一つが那覇市に設置された。また,保護観察所における処遇等を効率的に行うため,45年に八王子市,堺市及び北九州市にそれぞれ支部が設置されたほか,38年以降,保護観察官駐在事務所が次々に設置され,現在では,小田原市など27市に保護観察官が駐在している。
(4) 保護司制度の形成
 我が国の更生保護制度の中核をなす保護観察制度において,保護司は,犯罪をした者の改善更生を助けるための実行機関として位置づけられている。保護司は,法務大臣によって任命され,非常勤,無給の国家公務員とみなされてはいるものの,基本的には国民の中から推薦され,選任された民間の篤志家であり,その定数は,5万2,500人を超えないものと定められている。我が国の更生保護制度の特色は,この保護司を始めとする更生保護婦人会員,BBS会員など幅広い民間人の参与にある。
 明治半ばごろから,各地の釈放者保護団体において,保護委員,地方委員,訪問委員などの名称をもって,地域の徳望家・宗教家・事業家等に,近隣に帰住した刑務所等からの釈放者の善導を依頼する試みが続けられていた。例えば大正2年に設立された福井県福田会は,県下一円に支部を設け,支部ごとに地方委員を配置し,その完備した組織形態は,後年の司法保護委員制度の創設に当たって範とされた。
 現行の保護司制度のように,主務大臣等の行政機関の長が,法令に基づいて,民間の学識経験者等の篤志家を,犯罪や非行をした者の更生の援助者として任命する制度は,旧少年法による嘱託少年保護司の制度により大正12年に始まった。ただし,これは釈放者保護団体等の地域組織化活動の成果が採り入れられたものではなく,当時の官庁において一般に行われていた嘱託制度を活用したものである。昭和11年の思想犯保護観察法に基づく嘱託保護司の制度も同様である。14年の司法保護事業法に基づく司法保護委員の制度には,広範な地域組織化活動の成果の反映が見られ,おおむね警察署の管轄区域を単位として保護区を定め,司法保護委員を各保護区に配属させることとしたほか,任期制を採り入れ,これを3年とした。同法により14年には司法大臣により1万4,000人の司法保護委員が任命され,以後,増員を重ねて19年には3万5,000人が配置定員とされていた。
 嘱託保護司の制度は,いわゆる思想犯に対するものであったので,終戦直後に廃止された。次いで昭和23年には嘱託制度自体が廃止されたので,嘱託少年保護司は,少年審判所調査員となり,同年中にさらに委嘱少年保護司と名称を変え,24年の犯罪者予防更生法の施行に伴い,司法保護委員と呼ばれるに至った。
 昭和25年に保護司法が公布施行され,司法保護委員は保護司と名称を変え,保護司の推薦及び委嘱の条件,服務,定数等についての規定が設けられ,その任期は2年に短縮された。同法では,地方保護委員会及び保護観察所が少年・成人に分かれていたことに対応して,保護司もまた少年保護司及び成人保護司に分けられたが,この区分は,法務府の機構改革,保護司法の改正により,27年に統合されて,単に保護司と呼ばれるに至っている。
(5) 犯罪予防活動
 戦後,更生保護の分野に重要な活動領域として加わったものに,犯罪予防活動がある。昭和24年制定時の犯罪者予防更生法においては,犯罪予防活動は犯罪者の更生を図るために行うこととされ,範囲が限定されていたが,27年7月に,保護観察の実施と並び,犯罪の予防を直接の目的とする法改正が行われた。
 犯罪予防を目的として組織的に行われているのが,法務省が主唱し,毎年7月を中心に,全国的に展開されている「社会を明るくする運動」である。この運動の中央,都道府県,市町村等の各実施委員会には,多数の関係機関や民間の団体が参加して,その推進に当たっており,平成元年度には第39回を迎えた。
 社会を明るくする運動には,前身と呼ぶべきものがあり,一つは,大正14年に始まった「保護デー」であり,他は,昭和3年に始まった「少年保護デー」である。「保護デー」の運動は,明治天皇御大喪恩赦が,全国に釈放者保護事業が興る契機となったことを由来として,恩赦の詔勅が発せられた9月13日を期して,全国的に釈放者保護思想の宣伝活動が行われるようになったものである。「少年保護デー」には,旧少年法が公布された4月17日を期して,同様に少年保護思想の普及宣伝活動が行われた。両者は,昭和12年以降はそれぞれ「司法保護記念日」「少年保護記念日」と名称を変えつつ戦後に至るまで継続された。24年4月には1か月間にわたって「矯正保護強調運動」が展開され,犯罪者予防更生法施行の翌年の25年には,運動の時期を同法が施行された7月に移して「矯正保護キャンペーン」が行われ,26年には第1回の「社会を明るくする運動」が開催されるに至った。
 保護デーや少年保護デーにおいては,運動の主体は,保護団体の職員等の関係者であり,運動の内容も更生保護思想の普及宣伝活動であった。社会を明るくする運動は,多数の機関団体により構成される実施委員会を主催者とし,すべての国民が,犯罪の防止と罪を犯した人たちの更生について理解を深め,それぞれの立場において力を合わせ,犯罪のない明るい社会を築こうとする運動と位置づけられており,更生保護思想を基調とする犯罪予防活動として展開されている。また,この社会を明るくする運動を核として,犯罪予防活動を日常的に展開する努力が更生保護関係者らによって続けられている。