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 平成 元年版 犯罪白書 第4編/第3章/第2節/1 

第2節 矯  正

1 概  説

 明治から昭和に至る我が国行刑の動向を概観すると,明治時代は,監獄則並図式(5年)から改正監獄則(22年)を経て監獄法制定(41年)に至る行刑近代化への道を着実に踏み出した時代であり,大正時代は,監獄を刑務所と改称(11年)してその暗いイメージを払拭したほか,一部の施設での累進処遇制の試行(4年,豊多摩刑務所等),監獄衛生官の職制の設置(10年),7少年刑務所の特設(11年)など,人道主義と改善主義の雰囲気と土壌造りに努力した時代であり,昭和の時代は,第二次世界大戦という不幸な一時期を挟むものの,8年の行刑累進処遇令の公布から47年受刑者分類規程の発足に端的に見られるように,行刑について,再犯の防止と社会復帰という国際的刑事思潮の理念に沿って,処遇の人道化,社会化及び科学化に努め,その成果がようやく開花した時代と位置づけることができる。
 まず,昭和元年から10年に至る昭和初期の行刑を見ると,6年の仮釈放審査規程,8年の少年行刑教育令及び行刑累進処遇令が相次いで制定されるなど,受刑者の改善更生のための教育刑主義の理念が具体化し,教育行刑の思想及びその方法が一応確立し,処遇の人道化,科学化が図られた。
 昭和10年から20年までの間は,日中戦争から第二次世界大戦終戦に至るまで,国を挙げて戦争の遂行という国策の要請にまい進した時期で,受刑者も国内はもとより国外にまで派遣され,飛行場の建設,造船,飛行機・砲弾の生産などに従事した。一方,大戦末期には,アメリカ軍機による空襲により刑務所及び同支所等全国合計151庁のうち,全焼全壊26庁,半焼半壊13庁の大きな被害を受けたが,その中でも,悲惨を極めたのは,戦場と化した沖縄刑務所のほか,広島刑務所,長崎刑務所浦上刑務支所の原爆被災であり,広島刑務所では即死が職員5人,収容者12人,重軽傷は職員,収容者合わせて600人を超え,重傷者の中からその後死亡する者が続出し,浦上刑務支所では支所長以下職員18人,職員家族35人及び収容者81人が瞬時にしてその犠牲となった。また,昭和16年5月158,治安維持法の改正に伴う予防拘禁制度の発足により,東京予防拘禁所が豊多摩刑務所の一隅に設けられ,19年5月末日までの間に162人(うち,女子5人)の思想犯が拘禁された史実も存在している。
 昭和20年の終戦から27年の平和条約締結までの間は,かつてない過剰拘禁と極度の物資不足の中にあった戦後の混乱期から次第に回復期へと向かった時期であり,当初は集団逃走,騒擾,暴動等が頻発したが,一方,過剰収容緩和,食料増産,土地改良開発等のため北海道へ(23年),電源開発ダム工事建設のため東北地方へ(26年),それぞれ受刑者が多数派遣された。また,21年に行刑当局は,いち早く行刑処遇の基本原理(人権尊重の原理,更生復帰の原理,自給自足の原理)を発出して,行刑の在るべき姿を示すとともに多くの処遇改善を実施したほか,23年には受刑者分類調査要綱を制定して,科学的分類の基礎を築いている。
 昭和28年以降は,戦後の混乱と急激な受刑者の増加も次第に収まるとともに施設の規律秩序が回復し,我が国の急速な経済的発展と期を同じくして,行刑処遇も飛躍的な進展を遂げた。まず,28年には篤志面接委員制度が発足して広く部外の有識者による面接指導を行刑処遇に導入するなど,いわゆる行刑の社会化が図られ,32年中野刑務所に分類センターが設立されて,科学的分類に基づく矯正処遇が本格的に発足し,44年には急増する交通禁錮受刑者を収容するための本格的な開放的施設として市原刑務所が新設され,さらに,47年の「受刑者分類規程」の施行によって,近代刑事思潮にのっとった処遇の個別化を主体とする科学的分類処遇の軌道が敷かれ,これがおおむね処遇に定着して現在に至っている。
 以上のように,昭和行刑の推移を見ると,処遇の改善を主とする「人道化」(処遇の改善等)の流れ,社会復帰の施策を広く社会の理解と援助に求めるなど「社会化」(公衆参加等)の流れ,改善更生策を行動科学等に基づいて技術化する「科学化」(分類処遇等)の流れなどが相互に絡み合いながら受刑者処遇が進展してきた時代といえよう。
 ところで,現行監獄法は,明治41年制定後,実質的改正をみることなく今日に至っているため,このような矯正思潮の発展と変化に対応するには内容的に不十分なものとなっている。法務省は,監獄法を全面改正することにより,更に行刑の近代化,国際化及び法律化を図ることとし,昭和51年に法務大臣から法制審議会に対して監獄法改正について諮問,55年に同審議会から答申がなされ,その後,多少の曲折を経た後,62年4月,第108回国会に刑事施設法案を提出した。同法案は,その後の国会において実質審議に入りながらも継続審査となり,昭和の行刑史の中にその成立の事実を記述することができないまま,平成の新時代に引き継がれた(第2編第3章第1節参照)。