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 昭和51年版 犯罪白書 第2編/第4章/第1節/3 

3 充実期―昭和30年〜39年

 法制・組織機構の整備をほぼ終え,昭和30年代に入った更生保護が直面した問題は,保護観察の成果を挙げるための具体策の追求であった。
 まず,保護観察の実施においては,保護観察官と保護司との協働態勢の確立とともに,保護観察における指導監督・補導援護の担い手としての保護司の役割にかんがみ,昭和30年代初頭から保護司に対する研修が活発に行われ始めた。それは,意識の統一と処遇技術の開発等を主目的として実施され,30年の地方別保護司ケース研究会の開催以来,引き続き行われている。
 他方,更生保護会の指導監督についても,昭和31年には,第1回更生保護会幹部職員の中央研修が実施されるなど,現在に及ぶ更生保護会職員研修重視の動きが見られた。
 更に,仮釈放の審理については,地方更生保護委員会委員が面接する際に,関係事項の調査にとどまらず,本人の社会復帰を円滑にするための相談に応じ,助言を行うことも強調されるに至った。更に仮釈放審理の充実のために,昭和34年から委員の研究協議会が開催されるようになった。
 昭和33年3月25山前年から既に施行されていた売春防止法の一部改正により,同年4月1日に補導処分が新設されるに及び,婦人補導院の仮退院が地方更生保護委員会の権限に加わり,また,婦人補導院仮退院中の者に対する保護観察の実施及び補導処分終了者に対する更生緊急保護の措置の実施が,それぞれ,保護観察所の所掌業務に組み込まれることとなった。
 ところで,昭和30年代においては,保護観察に付される者が逐年増加し,34年末には9万2,236人に達した。これは,24年末と比較すると約2倍に当たる増加である。保護観察人員の増加は,主として保護観察付執行猶予者及び保護観察処分少年の増加によるものであって,施策の重点も,33年ころから青少年の更生保護の充実強化に移されてきた。
 折から,昭和35年10月12日,東京で起きた浅沼社会党委員長視察事件が保護観察中の少年によって犯されたものであったことから,保護観察のあり方に社会の厳しい批判の目が向けられると同時に,その重要性についての認識もまた高まった。
 一方,保護観察の実施に関して,保護司に対する依存度が極度に高い従来の保護観察についての反省も次第に高まってきた。その結果,執られた施策の一つが昭和36年10月1日から開始された東京・横浜保護観察所における保護観察官の直接担当及び取扱事件軽減による保護観察事件処理の実験である。この実験は,その後に続く保護観察官の直接処遇制の先駆をなすものと言えよう。
 それとともに,矯正と保護との連携の観点から注目すべき試みが昭和30年代に現れた。37年1月1日から実施された保護観察官を矯正施設に駐在させる実験的施策がそれである。この試みは,矯正処遇から更生保護への円滑な移行と仮釈放制度の適正な運営に資する目的で,中野刑務所に東京保護観察所の保護観察官を駐在させるものであった。37年1月1日から2年間実施され,更に2年間延長されて,41年3月31日に終了した。この実験的施策は,後述する仮釈放準備調査の中に施策として生かされ,矯正と保護との連携の強化に寄与するところがあった。
 昭和30年代の後半には,先に述べた浅沼委員長刺殺事件をはじめ,39年2月19日,旭川で起きた保護司刺殺事件等,保護観察中の者によって行われた重大事件が続き,また,精神障害少年によるライシャワー駐日米大使刺傷事件等が発生し,保護観察の実施においても,精神障害者,薬物中毒者,常習犯罪者,暴力団加入者等処遇困難者に対する特段の工夫が要求されるようになった。
 他方,昭和37年ころから保護観察対象者の中に,交通事件対象者が増加し始め,処遇の対象が次第に多種類にわたり,複雑さを加えてきた。
 仮釈放の運用については,地方更生保護委員会間の処分格差を少なくすること,及び矯正施設の長からの仮釈放申請に対する審理を更に綿密に行うこと等に重点が向けられた。その審査事務の充実のために,昭和37年ころから,仮釈放審理の過程における地方更生保護委員会事務局に配属されている保護観察官の専門的な機能を活用する方策が講じられ始めた。
 仮釈放の審理は,II-7図に見るとおり,収容人員の減少に伴う仮釈放許可人員の減少もあずかって,一段と充実を加えていった。この時期に見られる仮出獄申請に対する棄却率の上昇傾向は,審理の充実を反映したものと言えよう。

II-7図 仮釈放許可人員の推移(昭和24年〜50年)