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 昭和35年版 犯罪白書 第三編/第一章/四 

四 改正刑法のもとの監獄法

 刑法の制定に即応して,明治四一年に,監獄法がさだめられた。従来は勅令にすぎなかったものを,人権保障に重要な影響があることを認めて,あらたに法律をもって規定し,ドイツ獄制,とくに一九〇二年のドイツ内務省所管監獄則を参酌しているが,法律をもってしたところに,世界の行刑の慣行にさきがけたものがある。その特色は,つぎの点にあらわれている。
一 拘禁制度を重視して,独居制を原則とし,雑居制においては,類別方法を考慮したこと
二 少年監獄の特設を認めたこと
三 刑法の改正にともない,集治監,流刑囚の規定,懲治場を廃止したこと
四 衛生,保健に留意したこと
五 作業工銭制度を廃止したこと
 監獄行政の大本が,これによってうちたてられた。内容の改善は,実際の運営にまかされるわけである。
 刑法の実施は,当時としては,刑事政策上の一大変革で,監獄におよぼす影響もきわめて大きなものがあった。在監者のうち,拘留刑は減少したが,懲役刑は増加していった。明治四一年には,五万台(五三,〇二七人)であったものが,明治四二,四三年には,七万台に急騰した。囚情は,ために動揺した。明治四四年には,大量の仮出獄によって,これを緩和した。さらに,大正元年九月二六日,明治天皇御大葬による恩赦によって,在監人員は急速に減少した(大赦五三三人,特赦八,〇八五人,減刑一三,二〇三人)。大正三年には,五万五千台になり,その後,多少の起伏はあるが,大正一〇年には四万台になっている。監獄人口も,社会的,経済的な規模とのバランスを保たねばならない。人口一〇万に対する監獄人口をみると,明治四二年の一四八人に対し,大正一〇年は八二人である。他国にくらべると,まだバランスを保ったというには遠い。これが大正一三年になると,六七人になっている。これでも,ヨーロッパ諸国にくらべて多すぎる。しかし,わが獄制は,いちおう,安定の線を得たわけである。
 大正一一年には,監獄という行政上の名称を刑務所にあらためた。監獄という語から連想される残虐無惨を払拭する企てであった。学者のあいだに唱えられた教育刑の主張が,おいおいに滲透してきて,刑務所は,従来に比して明るさと清潔さと活気とをおびてきた。改良のためにされたいろいろのうちで,とくにつぎのものが注目される。
 第一は,仮釈放審査の充実である。昭和六年の仮釈放審査規程は,受刑者に対する審査方式を標準化した。すべて,受刑者は,身上関係,犯罪関係および保護関係の三点から審査されることとなり,今日の分類制度の基礎をつくり,仮釈放を積極的に運用する方針がとられた。このため,仮釈放者の数は,年とともに増加していった。
 第二は,累進制の採用である。受刑者の成績が向上するにしたがい,処遇を緩和するとともに責任を強化し,しだいに,社会生活に適応させようとするこの制度は,すでに,明治二七年の頃からもちいられ,各所バラバラで,試行の域にとどまっていたのが,昭和九年の行刑累進処遇令によって統一的に実施されることとなった。これは,受刑者に再生の希望をあらたにさせるものであった。
 第三は,刑務作業の発達である。作業時間を増し,作業指導者が充実された。後期には,刑務作業に軍需作業がとりいれられた。所内の作業が機械作業にかわるにしたがって,職業訓練にもこれがもちいられるようになった。開放的な戸外作業やキヤンプ作業も,はじめられた。重い連鎖をつけられて働いた往年の北海道開拓作業とは,まるで,様相を異にしたものであった。この結果,作業収入は増大し,受刑者がみずからの衣食の費を賄うまでの計算になった(III-1表参照)。

III-1表 刑務所作業収入額と収容費

 とくに,太平洋戦争に突入するや,つぎの諸点が注目される。
一 ひろく統一的に人格考査要綱(昭和一九年)をさだめて,実用に供した。
二 一般労働市場における技能者の不足に対応して,職業訓練が行なわれた。
三 構外作業場が進展した。
四 仮釈放者が増大した。