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 昭和35年版 犯罪白書 第三編/第一章/五 

五 少年制度の発達

 自由刑の発見とその発達が,刑事政策の第一の曲り角とすれば,第二の曲り角は,少年制度の創設だということになる。世界の刑事政策でも,そうであるが,わが国でもそうである。直接にいえば,大正一一年の少年法がこれにあたる。
 少年対策を一般の成人の犯罪対策から区別しようとする企ては,それほど新しいものでない。ヨーロッパでは,すでに一八世紀初期に行なわれていたし,わが国でも,すでに,徳川時代の刑政に,あらわれている。さきにあげた明治初期の監獄則(明治五年)は,イギリス式の行刑を模したから,懲治監の制度をおいた。また,明治一三年の旧刑法は,刑事責任のない少年は,懲治場を設けてこれに収容することにし,刑事責任のある少年は,監獄の大人と離隔した場所に収容することにした。川越分監のごときは,明治三三年一〇月以降,とくに,少年のみを収容して,川越児童保護学校と称し,進歩した教育をほどこした。明治四一年の監獄法は,明文をもって,少年監獄を特設することをさだめた。これによって,おいおいに,少年刑務所ができることになった。とくに,大正一一年の少年法が,大人にはない不定期刑主義を採用したから,この傾向は促進された。
 少年について,このように,拘禁を別にし,特殊な処遇をするにしても,その場所が監獄であることは,のぞましくない。少年は,できるだけ,監獄に拘禁することをさけるべきであるという主張が,ようやく,地歩を得るとともに,これと併行して,浮浪少年や遺棄された少年に対する保護教育の企てがすすんできた。
 保護教育は,もと,私人や私団体の活動に発している。積極的に手がつけられるようになったのは,外国では一九世紀の初期であるが,わが国では明治一〇年代といわれている。神戸の神道祈祷所がそれである。その後,ドイツのラウエ・ハウス(一八三三年),フランスのメトレイ農園(一八三九年)の事績が紹介されるにおよんで,成田学園(明治一四年),私立予備感化院(明治一八年),岡山感化院(明治二一年),京都感化保護院(明治二二年),高松感化保護院(明治二四年),広島感化保護院(明治二四年),三重感化院(明治三〇年),北見の家庭学校(明治三二年),などが,設立された。明治三三年(一八八〇年)になって,感化法が制定され,満八才以上一六才未満の者で不良行為をするか,そのおそれのある者を,府県立感化院や代用感化院や私立感化院に収容できることとなった。明治四〇年の刑法改正で,懲治場が廃止されたので,これにあたる少年を感化院に送致することとし,その年齢をひきあげて一八才までとし,国立の感化院をも設けた。この感化制度が,今日,児童福祉法に吸収されて,教護院制度となっている。
 罪を犯したが刑事責任のない少年や起訴を猶予された少年は,これを感化院におくることで,いちおうの手段を了したことになるが,少年に対し,積極的に,自由刑の執行をできるだけ避けるというには,ことかく状態であった。とくに,第一次大戦後,非行少年が輩出する状態に対処するには,制度上の考慮をはらう必要が生じた。そこに,アメリカの少年裁判制度にならって,少年審判の制度が考慮にのぼった。大正一一年の少年法は,じつに,これを規定したのであった。すなわち,少年審判所を設け,一八才以下の少年で,検事から送致をうけたもの,および,犯罪をなすおそれのある少年に対しては,少年審判所の審判によって,各種の施設処遇や施設外処遇を命ずることにしたのである。教護院送致もこの施設処遇であるが,あらたに,収容施設として,司法省の所管する矯正院が設けられた。
 わが国は,ドイツ(一九二三年)と前後して,少年法を定め,保護処分につき少年審判所を設けたが,少年法は,同時に,少年に対する刑事処分を特別にさだめた。一六才までの死刑の廃止,不定期刑の採用などがそれである。不定期刑の採用というのは,わが国としては,まったく新しいことであった。これによって,少年行刑が一段と進展した。しかし,不定期刑採用の前提となるべき諸制度,たとえば,釈放を決定する機関の創設などは,まったく等閑視されていたため,この制度の長所は発揮されるにはいたらなかった。後年(昭和六年),判事や検事や刑務所長をもって仮釈放協議会が設けられ,毎月一回審査をする制度がはじまり,ようやく,不定期刑の執行がその実質を備えつつあったが,戦争によって中絶した。
 少年法は,さらに,少年についてプロベーション制度を導き入れたという点でも,画期的な立法であった。すなわち,のちに述べる刑事政策の第三段階としての,一般的な非拘禁的処遇へのさきがけをしたわけである。一般の執行猶予は無監督であったのを,少年の執行猶予については,少年保護司の観察に付し,施設には収容しないが,これと同様な指導や監督をあたえることとした。
 つぎに,保護処分のうち,とくに注目すべきは,保護団体委託と矯正院との制度であった。まず,委託保護団体としては,大正一一年に,いち早く,財団法人千葉星華学校が創設せられたが,少年法の施行後には,民間の協力により,寺院や教会の一部を収容場として,東京,大阪の両少年審判所管内(東京都,神奈川県,埼玉県,千葉県,大阪府,京都府,兵庫県)に,あいついで,少年保護団体の設立をみるにいたり,翌大正一二年には,政府は,少年の保護団体の認可の準則を通牒して,その内容の整備と向上発展のため,適切な指導にあたることとなった。また,一方,その指導連絡と団体相互の連絡統一をはかるため,少年保護協会が組織されることとなった(同協会は昭和三年財団法人日本少年保護協会と改称)。
 しかし,旧少年法施行当初の少年審判所は,東京市および大阪市の二ヵ所にすぎず(矯正院は多摩,浪速の二つの少年院),その実施区域は,東京府,神奈川県,大阪府,京都府および兵庫県の三府二県で発足したのであったが,その後,昭和九年には名古屋に名古屋少年審判所(瀬戸市に瀬戸少年院)が開設をみ,愛知県,岐阜県および三重県を管轄することとなり,昭和一一年には,東京少年審判所の管轄に千葉県および埼玉県が編入され,さらに,昭和一三年には,福岡市に福岡少年審判所(ならびに福岡少年院)が開設されて,福岡県,佐賀県,長崎県,熊本県の四県を管轄するようになり,ついに,昭和一七年には,全国実施を完成するにいたった。
 ともあれ,この少年法の実施によって創設されだした少年の保護団体は,発足当初は施設の内容も整わないものが多かったが,その後,団体の新設も多く,しだいに充実整備をみるにいたり,補導内容も徳育,智育,職業教育の三つを計画的にすすめるかたちとなり,処遇方針にそって,収容少年の特殊性に応じた特徴ある団体を成長せしめた。たとえば,知能低格少年,療養少年,幼少年,女子,朝鮮人の少年などをもっぱら収容するものや,私立学校の認可をもつものなどもうまれ,少年保護団体は,矯正院の収容能力の過少をおぎなうとともに,保護団体独自の特色を発揮して,少年保護司の観察と相まって,保護処分の執行委託機関として実力を発揮するようになった。
 矯正院については,矯正院法(大正一一年)があった。この施行とともに最初に開設された矯正院は,多摩少年院(東京)と浪速少年院(大阪)の二つだけであった。両院の教育内容は,まったく学校とかわりがなく,小学校に旧制の中学校と実業学校とを加え,とくに精神薄弱者のための特殊教育を含めた内容をもち,ただ,その薫督の面では,当時の軍事教練式の厳格な規律訓練を採った。そして,わずか一〇〇人から一五〇人の少年を収容しながら,その経費は当時の一流府立中学校とほぼ肩をならべたものであった。
 最初に開設された多摩,浪速両少年院に少年を送致するのは,東京,大阪の両少年審判所であり,その管轄区域は,東京府および神奈川県と,大阪府,京都府および兵庫県で,あわせて二府三県にすぎなかった。つまり,最初は要保護少年のもっとも多い地域にのみ保護処分が行なわれたわけである。その後,少年審判所がしだいに増設されて,保護処分の施行区域が拡張されるとともに,矯正院の数もしだいに増加し,昭和一七年一月一日から保護処分が全国に施行されるにいたって,その数は本院七,出張所(矯正院は,少年審判所の所在地に出張所を設け,今日の少年鑑別所の観護課の役目をはたした)七となり,昭和二三年(現行少年院法施行の前年)には,本院一二,出張所八となったが,今日の少年院にくらべれば収容力も微々たるもので,同年末の収容総数は,一,三九九人にすぎなかった。そして,この間に,私設の保護団体(昭和二三年末現在で,一六六団体,収容人員一,九五八人)が,民間の矯正施設として,矯正院を補充する役割を演じていたことを忘れてはならない。