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 昭和35年版 犯罪白書 第三編/第一章/二 

二 自由刑の発見

 犯罪対策の歴史は,まず,自由刑の制度をとりいれることによって,顕著な変革をうけた。それまで,犯罪者に対する反撃の手段として,各種の死刑や各種の身体刑や流刑や追放刑などが主としてもちいられていたが,自由刑の発見後は,それが従来の刑罰にとってかわる主要な地位をしめることとなった。
 自由刑が,その構想を発したのは,一六世紀から一七世紀前半にかけてのことで,刑罰制度のうえに確乎とした地位をもつにいたったのは,一八世紀である。近代刑法は,この自由刑を中心に構築された。すなわち,自由刑は,一七世紀にそのあたまをあらわし,一八世紀にかけて,それまでもちいられていた死刑や身体刑にかわった。そして,一八世紀末には,刑罰制度における支配的なものとなった。刑法は,これをとりいれて整備された。一七九四年のプロシヤ普通法は,刑の種類として,自由刑を支配的なものとしていたし,また,これに先行する一七九一年のフランス刑決は,まったく法定主義のもとに,自由刑をさだめることになった。その線にしたがって制定された一八一〇年のナポレオン刑法は,のちにわが旧刑法に大きな影響をあたえた。
 わが国における自由刑の発生を回顧してみよう。徳川中期以後,農民の窮乏のため,その離村傾向は顕著になった。都市に流入する人口は多くなり,なかには浮浪者に転落するものもでるし,さらに,諸藩に行なわれた追放刑は,かかる浮浪無宿の徒を都市に集中することに拍車をかけた。思想家たちは,刑事政策の変革を唱えた。とりわけ,荻生徂徠は,シナや日本の古制である律にもとづいて刑法のさだめらるべきこと,自由刑を採用すべきことなどを主張した。徳川幕府は,一七四二年(寛保二年),「公事方御定書」(御定書百ヵ条)を制して,刑事政策の基本をさだめた。この御定書の意図した追放刑の制限は,ついに効を奏することなく,徳川幕府は,幕末まで,この刑のもつ矛盾に苦しめられた。しかし,その苦悩のなかに,ふたつの試みが芽ばえた。その一つは,一七七八年(安永七年)に鉱山役夫の制度を設け,江戸その他近国に徘徊する無宿の徒をとらえて,幕府経営の佐渡銀山に押送し,水替人足の苦役に服せしめた。さらに,ふたつには,一七九〇年(寛政二年)には,江戸石川島に人足寄場を設けて,身体刑(入墨,たたき)に相当する軽罪のものと無宿の者とを収容した。前者は,身体刑となにほどもかわらない労働強制であったが,後者は,教化訓練,授職,更生を目的とし,今日の自由刑のさきがけであった。
 各藩にも,徂徠学などの影響をうけて,自由刑としての徒刑を採用するものがでた。しかし,全国的規模で,自由刑の採用が実現するのは,明治新政府にまたねばならなかった。明治新政府は,まず,明治元年(一八六九年)一〇月の行政官布達によって,新しい法律のできるまでは,従来の公事方御定書によるが,その刑を単純化するとともに,追放,所払いの刑は徒刑に換えることをうちだした。さらに,明治二年九月,明治天皇は衆議院に対し,刑律改選の詔によって,改正のことを下問され,「法律以テ政ヲ為シ刀鋸以テ下ヲ率ヒ」た過去の刑政をあらためて,「凡八虐,故殺,強盗,放火等ノ外異常法ヲ犯スニ非サルヨリハ大抵寛恕以テ流以下ノ罰ニ処セシメントス。抑刑ハ無刑ヲ期スルニ在リ」と大本を詔示された。これよりさき,明治元年,刑法官は,明清律を基礎にして,刑を笞徒流死の四種とし,とりわけ,徒刑を中心とする仮刑律を用意していた。明治三年一二月,新政府最初の刑法である新律綱領が頒布された。これは,仮刑律とおなじく,明清律を基本とし,これに養老律,公事方御定書を参酌し,笞杖徒流死の五刑をさだめた。刑法は,これによって,全国的に統一された。しかも,「労役苦使シ以テ悪ヲ改メ善ニ還ラシム」るところの徒刑を採用したのである。さらに,明治五年四月には,懲役法によって,笞杖の身体刑を廃止して懲役にかえた。明治六年には,さらに,フランス刑法を参酌して,改定律例がさだめられ,一時はこれと新律綱領とがならび行なわれたが,この律例は,笞杖徒流を廃止して,原則として監獄において役に服させ,傭工銭を給与する懲役にかえて,自由刑が確定的に採用されることになった。
 明治新政府にふさわしい刑法典として,東洋法の律によるか,フランス刑法によるかという争いはあったが,明治八年九月,司法省にボアソナードを中心とする編纂委員が命ぜられ,刑法編纂の事業がはじめられた。そして,五年の日子を経て,明治一三年(一八八〇年)七月,成案を得て,公布された。旧刑法とよばれているのがそれである。それは,一八一〇年のナポレオン刑法をモデルとするものであった。わが刑事政策はここに,完全にヨーロッパ風のものに切りかえられたのである。それは,自由刑,罰金刑,それに流刑としての徒刑を中心とした。
 自由刑を中心とする刑罰制度では,当然に,その執行方法が問題になってくる。明治四年に,徒場規則が設けられたが,政府は,香港のイギリス領監獄の規則などを参酌して,明治五年(一八七二年)一二月,監獄則および図式を頒布した。その内容は,夜間独居制,累進制などを規定して,すこぶる進歩的なものであった。だが,律とフランス刑法とのあいだに刑法典を模索していた当時としては,うけいれられず,半年たらずで施行をやめ,旧慣に復することとなった。しかし,その開巻第一にあった「獄は人を仁愛する所以にして人を残虐する者にあらず」という言葉は,遇囚の基本となり,また,個々の規定も,遇囚に方針をあたえた。建築様式なども,この監獄則によるものがでた。そして,旧刑法の実施とならんで,明治一四年九月,改正監獄則が制定された。この改正監獄則は,つとに,拘禁制など監獄行政の大本を逸していることが,とくに,ドイツ法をおさめた学者から指摘されていたが,政府は,条約改正の準備のためにも監獄の整備を必要とし,明治二二年七月,第二回改正監獄則を発布した。さらに,同年,ドイツ人フォン・ゼーバッハを招聘して獄制改良の顧問とし,また,翌二三年には,監獄官練習所を創設した。フランス流の刑法のもとに,ドイツ風の行刑が導入されたわけである。明治二二年に大日本帝国憲法の制定される過程において,その基礎として,一般にドイツ法が研究されたが,行政の内部でも,イギリスやフランスでなく,ドイツに範をとる傾向に沿ったものである。そして,明治三三年一月には,監獄費の国庫支弁が実現するとともに,その年四月には,監獄行政の事務は司法省に移され,ほぼ,今日の自由刑管理の体制ができあがった。