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 昭和55年版 犯罪白書 第4編/第1章/第1節/2 

2 矯  正

 第2次大戦終了後の混乱した社会情勢の中において,司法省は,昭和21年1月に「監獄法運用ノ基本方針ニ関スル件」の通達を発し,戦後における行刑運営の基本理念を明確にしたが,この通達に示された[1]人権尊重の原理,[2]更生復帰の原理,[3]自給自足の原理の三つは,行刑を支える柱となった。更に,戦後の我が国における施設内処遇に大きな影響を及ぼしたものに,国際連合の「被拘禁者処遇最低基準規則」がある。この被拘禁者処遇最低基準規則は,1955年ジュネーブで開催された犯罪防止及び犯罪者の処遇に関する第1回国際連合会議で決議され,1957年の国際連合経済社会理事会で承認採択されたものであって,現代矯正における人道的,教育的及び治療的処遇並びに規律維持等に関する原則を規定しており,国際連合加盟各国における施設内処遇制度の改正,創設の際における指針とすべきものとされている。
 我が国においては,戦後,憲法の改正をはじめとする法令・制度の改正や時代思潮の変化に対応して,行刑運用の面でも多くの改革が行われたが,基本法である監獄法に関しては,犯罪者予防更生法の制定等に伴う部分的改正が行われたにすぎず,監獄法施行規則の改正が24回,行刑累進処遇令の改正が4回行われたほか,訓令の改正や通達等によって処遇体制の整備が図られた。これらによる特記すべき処遇上の変遷を,昭和20年代について見ると,
 [1] 受刑者の衣類について,赭色(赤土色)から浅葱色に改めた(22年)。
 [2] 憲法との関係上,従来の教誨師制度を廃止し,民間の宗教家によることとした(22年)。
 [3] 暗室に拘禁する懲罰である重屏禁を,事実上廃止した(22年)。
 [4] 被告人の弁護人接見について,監獄官吏の立会を要しないこととした(23年)。
 [5] 通信教育制度を採用した(24年)。
 [6] 医療刑務所を組織法上確立した(26年)。
 [7] 収容者処遇について部外者の援助を得るため,篤志面接委員制度を新設した(28年)。
 [8] 刑務作業の時間について,実働1日8時間,1週間48時間制を確立した(28年)。(21年に1日の作業時間を8時間とすることができることとされていた。)
 などがあるが,その他特記すべきものとして,23年制定の「受刑者分類調査要綱」による分類制度の発足がある。
 我が国においては,既に昭和の初期から一,二の刑務所で分類制度が試みられていたが,昭和6年の仮釈放審査規程による身上関係等の調査及び8年の行刑累進処遇令の第2章(受刑者の分類)において制度的に確立され,戦時の構外作業要員の選定にも用いられていた。受刑者分類調査要綱は科学的分類を前提としたもので,これにより,受刑者を改善の難易,犯罪の偶発性・習慣性,刑期,健康,年齢,性別等によって適正に分類し,同質の受刑者を一つのグループにまとめることによって共通の処遇条件を樹立し,その上に立って個別的処遇を効率的にしようとするものであり,この分類制度の確立こそ,戦後の犯罪者処遇の発展を特色づけるものである。32年には,分類処遇制度を推進し,拡充するため,中野刑務所を分類センターとして再編成した。このような分類処遇の展開に合わせて,施設の整備と近代化も活発に行われ,また,作業・職業訓練,教育・教誨,医療・衛生,給養などの処遇体制の整備が図られたが,30年以降に整備された処遇体制の主要なものを挙げると,
 [1] 理容師から自動車整備に至る各種資格獲得を目的とした受刑者職業訓練規則の制定(31年)
 [2] 職業訓練法に基づく職業訓練指導員の免許を矯正職員に取得させるための措置の導入(34年)
 [3] 禁銅受刑者の集禁処遇の開始(36年)。(39年に制度化)
 [4] 一般懲役受刑者を対象とする開放的処遇のための大井造船作業場(松山刑務所所管)の開設(36年)
 などの施策がある。
 開放的処遇は,昭和30年代後半の自動車利用の普及に応じて発生した交通関係事件に伴う禁銅受刑者の増加を背景にして,豊橋刑務支所(36年),習志野刑務支所(市原刑務所の前身・38年)などで行われ,その後,一般懲役受刑者に対しても実施されるようになったが,それはまた,分類処遇の推進によってもたらされた処遇の個別化,行刑の社会化の産物でもある。また,行刑とは別の処遇体系ではあるが,33年に売春防止法の一部が改正され:同法第5条の罪を犯して執行猶予になった成人の女子に補導処分を行う施設として婦人補導院が設けられたが,そこでの処遇も分類処遇が基調となっている。
 分類処遇の推進及び施設内の処遇体制の整備を背景にして,昭和41年に,かなり大規模な監獄法施行規則の一部改正が行われた。この改正の目的は,戦後生じた施設内処遇における法規の間げきをうずめ,開放的処遇を含む分類処遇の推進を中心とした処遇の充実を図ることであった。更に,47年には,処遇の一層の充実を期するため,処遇分類級の導入等を盛り込んだ分類制度の改正を目的とする「受刑者分類規程」が制定された。49年には,施設外教育などの拡充を目的とする行刑累進処遇令の改正も行われたが,法律による行政の原理の貫徹,収容者処遇の徹底,社会復帰の促進など行刑上の時代的要請を完全に充足するため,監獄法の抜本的な改正への期待が次第に強くなり,51年3月,法務大臣から法制審議会に対して監獄法改正についての諮問がなされ,同年4月から,同審議会監獄法改正部会において審議が開始された。
 改正の基本的方向は,行刑の[1]近代化(形式・内容共に時代に即応するものとする。),[2]国際化(国際連合の丁被拘禁者処遇最低基準規則」のほか,諸外国の立法に示された世界の思潮と水準を考慮する。),[3]法律化(収容者の権利・義務に関する事項その他処遇の基本となる重要な事項は,できるだけ,法律で明確にする。)を図ることにあった。その後,監獄法改正部会における審議は順調に進ちょくし,49回にわたる審議を重ねた結果,昭和54年12月,「監獄法改正の骨子となる要綱案」を決定し,現在,法制審議会総会において審議が進められている。
 監獄法改正の骨子となる要綱案では,受刑者の人権を尊重しつつ,拘禁の性質に応じた適切な処遇を行い,受刑者の社会復帰を促進するために,開放処遇,外部通勤,外出・外泊,釈放前処遇などの制度を法律上明確にしようとしている。多年にわたる行刑改革は,前述したように省令等の改正を重ねることによって運用されてきたが,制定以来70余年を経過した現行監獄法は,現代行刑の基本法としては必ずしも十分ではなく,その全面改正により,近代行刑の飛躍的な充実を図る必要があることはいうまでもないところである。