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 昭和35年版 犯罪白書 第三編/第一章/七 

七 非拘禁的処遇の発達

 戦後は,わが国が,自由刑中心の犯罪人処遇制度から,非拘禁的な処遇制度にむかった時代であるといえよう。一般的にいえば,自由刑の執行と更生保護とが,車の両輪のようになって,犯罪人の個別処遇にスタートしたわけで,大正年代に採用された少年処遇を先駆者として,ようやく,更生保護が一般の犯罪人処遇制度におよんだことになる。刑事政策の歴史からいえば,第三段階に入ったのである。
 それには,まず,昭和二二年の刑法改正をあげなければならない。この改正によって,一は刑の執行猶予の範囲の拡大,その二は,いわゆる前科抹消制度ができた。従来の規定では,二年以下の懲役または禁錮が執行猶予の対象であり,それじたいすでに他の立法例にくらべて範囲のひろいものであったが,刑法のこの改正によって,三年以下にまで適用の範囲をひろげ,さらに,罰金にも執行猶予を認めることにした。また,いわゆる前科抹消制度は,刑の執行終了後,罰金については五年,自由刑については一〇年を経過すれば,刑の言渡が効力を失うとして,恩赦による復権のほかに,あらたに,法律による復権を認めたものである。
 恩赦については,やはり昭和二二年に,あらたに恩赦法がさだめられた。それは,個別恩赦の途をひろげ,恩赦に更生保護の一環としての役割をはたさせることをも意図した。
 つぎに,大正時代に採用された少年処遇制度は,戦後の改革の嵐のなかに,新しい姿で誕生することになった。昭和二三年七月一五日に公布された少年法がそれで,昭和二四年一月から実施された。旧少年法に対し,つぎの点に特色をもっている。
一 あらたに家庭裁判所を設け,少年に対する保護処分は裁判所にあたらせたこと
二 少年の年齢を一八才から二〇才にひきあげたこと(昭和二六年から実施)
三 少年事件につき刑事処分を科するか,保護処分に付するかの選択は,従来は検察官側にあったが,これを家庭裁判所の先議にゆだねたこと
四 保護処分の種類を,保護観察と教護院または養護施設送致と少年院送致との三種に変更したこと
五 保護処分の決定とその執行とを分離したこと
六 保護処分決定前の一種の未決勾留の処置として,観護措置を認めたこと
七 保護処分を決定するための資料を科学的見地から得るために,少年鑑別所を設け,また,少年調査官の制度を創設したこと
などである。そして,刑事処分についても,一八才未満者に対する死刑の廃止など重要な改正が行なわれた。これにともなって,従来の矯正院法も,少年院法にかわることになった。この少年院決は,従来のものに対し,つぎの点に特色をもつものである。すなわち,
一 矯正教育をほどこす積極的な場所であることを法定したこと
二 あらたに,初等,中等,特別,医療の各種を設け,とくに,従来なかった医療少年院や女子少年院が認められたこと
三 矯正教育にひろく社会資源を導入する途をひらいたこと
などである。
 旧少年法から新少年法への過渡期において,少年院の整備について,若干の混乱があった。旧少年法は,実施後に徐々にその適用範囲をひろげるというきわめて実際的な方法をとっていたので,それが,全国的に適用をみたのは,昭和一七年一月からであった。したがって,旧少年法のころには,矯正院の数も不足で,収容施設としては,保護団体に収容委託をすることが大いに行なわれた。しかるに,占領軍当局は,この団体委託が少年の人権保障と保護に支障あるものとして,昭和二三年二月,私立少年院廃止の名目で少年保護団体の廃止を指令してきた。政府は,新少年法の実施にそなえて,これらの団体を新少年院に転用しようと企て,新少年法実施の昭和二四年三月末までに,いちおうの整備を得た。昭和二三年から同二四年にかけて,各地に,少年院と,少年観護所と少年鑑別所ができた(後両者はのちに併合されて,少年鑑別所一本に帰した)。旧少年法の時代には,一二ヵ所にすぎなかった少年院が,昭和二四年の新少年法施行にそなえて,一躍,五四ヵ所に急増した。しかし,これらの少年院は,前述の少年保護団体の買収や旧軍関係施設の買収によるもので,その施設は,老朽や腐朽のものが少なくなかった。かてて加えて,ことにあたる職員も,未経験者が多く,少年処遇に適切をかくものもあった。しかも,収容少年の数は急増していった。かくて,新法初期の少年院には,多くの混乱があらわれた。この状態は,昭和二八,九年をピークとした。この両年には,関東の三つの特別少年院で放火,逃走,集団暴行事件が激発して,世人の耳目をおどろかせた。昭和三二年ごろからは,いちおう安定の段階に入った。
 これよりさき,少年法制定の経過のうちに,少年処遇をも含めて,ひろく,犯罪人の処遇につき,拘禁的処遇と非拘禁的処遇とのあいだに弾力的な一貫的な処遇を確立して,犯罪人処遇に効果のあるものを求めようとする気運がおこった。すなわち,昭和二四年五月に犯罪者予防更生法が公布され,同年七月から施行されることになった。その特色は,つぎのようなものであった。
一 犯罪人の施設外処遇として,あらたに保護観察制度を採用し,とりあえず,従来,警察署の監督をうけていた仮出獄者をこの保護観察に付することとした。少年に対する保護観察と少年院仮退院後の観察も,これにあわせた。
二 保護観察を実施する機関として,少年保護観察所,成人保護観察所を設けた。(のちに,昭和二七年八月の改正によって少年,成人の別を廃とした。)
三 仮出獄の許可は,従来,司法大臣の書面審理によっていたのが,あらたに,少年,成人の各地方更生保護委員会を設け,この委員会が面接のうえ決定することとした。(これも,昭和二七年の改正によって,少年,成人の別を廃止した。)
四 右の保護観察と,恩赦と,さらに,一般の犯罪予防活動を管掌するために,中央機関として,法務府の外局として,委員五人をもって組織する中央更正保護委員会をおいた。(昭和二七年の改正によって,権限を縮少し,ほとんど恩赦のみを管掌する中央更生保護審査会に変容した。)
 この法律は,アメリカ式のパロール制度をとりあえず採用したものといえる。
 刑の執行猶予をうけた者を保護観察に付するという企ては,まず,昭和二八年の刑法一部改正で実現した。この改正では,現に執行猶予をうけている者が再犯しても,その罪が一年以下の刑にあたり,情状のよい場合は,も一度,執行猶予をあたえることができる,しかし,そのときは,かならず保護観察に付するというのであった。保護観察を導入して執行猶予の範囲をひろげたわけである。さらに,翌昭和二九年には,一般に執行猶予につき裁判所の裁量によって,保護観察に付することができることとした。この両年にわたる刑法改正によって,いわゆるプロベーション制度が,わが国でも採用されたわけである。執行猶予をうけた者の保護観察について,その内容手続を規定するために,昭和二九年に,執行猶予者保護観察法が制定された。
 保護観察というのは,犯罪人を自由の社会におき,遵守事項を命じて監督し,必要のある場合には,援護をあたえて,その改善と更生をはかる処分である。この監督と指導と援護とにあたるのは,専門の教養をうけた保護観察官と保護司である。そして,遵守事項をまもらなかったり,再犯があった場合は,執行猶予を取り消し,あるいは,仮出獄を取り消すのである。英米風にいえば,刑の執行猶予とむすびついたものは「プロベーション」であり,仮出獄と結びついたものは「パロール」とよぶ。この制度は,犯罪人にただ宥免をたれようというのではない。社会の防衛をなしつつ,また,一方,犯罪人の更生復帰を目的とするものである。刑務所の塀によって社会を防衛するのではなく,人と人との結合によって防衛しようとするのである。したがって,この制度の功をおさめるには,建物よりも人の整備にある。
 保護観察制度の採用によって,犯罪人の非拘禁的処遇がうちだされたのにともなって,戦前の司法保護事業法にも検討が加えられることになった。そして,これにかわって,あらたに,昭和二五年に更生緊急保護法が制定された。保護観察がいわば有権的な更生保護だとすれば,これは,この保護観察にもれる満期釈放者や起訴猶予者など刑事拘束を解かれた者が,保護を願いでたときに,これをあたえる任意的な更生保護をさだめたものである。それは,つぎの点に特色をもつものであった。
一 更生保護が国の責任による事業であることを明定し,更生保護会には,国が対象者を委託するときに,委託費を支払う途をひらいた。
二 更生保護を保護観察所に管掌させた。
 このように,非拘禁的処遇がとりいれられたことは,拘禁的処遇を不要にするものでないのはいうまでもない。重かるべきに重く,軽かるべきに軽く,拘禁を必要とするものに拘禁を,非拘禁を適切とするものに非拘禁の処遇をほどこそうというのが,世界の刑事政策の動向である。拘禁的処遇と非拘禁的処遇とは,車の両輪のような関係にある。したがって,非拘禁的処遇がとりいれられるにともない,拘禁的処遇にも,大きな変化が訪れる。それは,あたらしい行刑改良の方向を指すものである。「行刑」という言葉は,「矯正」という言葉におきかえられた。
 ところで,しばらく,終戦直後の行刑事情をみよう。終戦をむかえた昭和二〇年八月一五日には,受刑者の総数は五万余を算し,うち三分の一は構外作業についていた。これを刑務所に復所させるには,刑務所は不足していた。戦災によって本所二五ヵ所,支所一一ヵ所が被災し,収容定員は大きく減じていたからである。そこで,終戦直後のポリシイとして,二つの手段がとられた。一には大幅な仮釈放,二には軍需構外作業の農耕作業への転換であった。この年七月から一二月のあいだに仮釈放されたのは,一五,一五九人であった。その一〇月一七日の恩赦によって釈放されたものは,三〇〇〇余人であった。構外作業としては,農村総合作業(一名「村つくり作業」)農地開発作業,簡易住宅建築作業などがとりいれられた。これらの措置によって,昭和二〇年末には,いちおう,バランスのとれた収容事情となっていた。しかし,昭和二一年に入ると,被告人の増加はいちじるしく,同年下期には,ようやく,拘禁過剰の色が濃く,戦後の不安定に加えて,この過剰状態は,各所に暴動,逃走,職員殺傷などの事故を生ぜしめた。拘禁過剰に対して,刑務所の復旧も増設も遅々たるものであった。昭和二二年にいたって,あたかも,当時,関東地方を水にひたして新聞紙上を賑わした利根川の桜堤の決壊にも比すべき状況となるにおよび,ようやく施設は増強の緒についた。収容者の増加によって不足をきたすのは施設だけではない。寝具,衣類などはとくに不足をつげた。
 これらの混乱は,施設の増設,食糧事情の好転などにともない,昭和二四,五年にいたって,ようやく安定のきざしを得た。積極的な試みが,このころからはじめられた。昭和二三年二月の法務府設置法の改正によって,あらたに「矯正保護」という言葉がとりいれられた。自由刑の執行と更生保護とが一体のものであることを示そうという世界の風潮に一致しようとする企てである。世界は,一九四〇年代以来,犯罪人の処遇を,社会防衛に加えて,「矯正」ということでしめくくろうとする傾向にむいてきた。一九四一年に,サン・フランシスコでひらかれたアメリカ刑務会議は,「矯正」という言葉を前景にたてることを決議した。戦後にあらわれた各国の憲法の二,三にも,このことを規定している。パナマ(一九四六年),イタリヤ(一九四八年),アルゼンチン(一九四九年),シリヤ(一九五〇年),ウルグワイ(一九五一年),カンボジア(一九五六年)などである。矯正ということは,権力による屈服にかえて,人格の積極的発達を終局の目標とするものである。
 積極的な試みの一つとして,分類制度の拡充ということがあった。適切な処遇を得るには,受刑者に対する調査,診断がともなわねばならない。この診断を得る企てが,分類制度の一つの側面である。分類制度拡充の準備として,昭和二二年九月,司法省に矯正科学審議会がおかれた。この審議会において,心理学,精神医学,社会学,医学,教育学,統計学の専門家が委嘱され,人格考査の方法などが議せられた。昭和二三年四月には,関東地方の施設を管理する関東行刑管区に分類センターがおかれ,審議会の結論を試行した。同年一二月には,全国的に施行をみた。分類の基準は,第一には,改革の容易なものと改善の困難なものとをわけること,第二には,従来からあった拘禁区分にしたがい,性別や刑期などを斟酌すること,第三には,構外作業すなわち軽警備(ミニマム・セキュリテイ)に適する者をわけることにおかれた。そして,管理上可能なかぎりにおいて施設を分類して,この基準をみたした。
 分類制度の実施と前後して,特殊刑務所の設置が促進されることになった。昭和二一年四月には,旧小倉陸軍刑務所跡に城野医療刑務所が設けられ,精神障害者を収容した。昭和二七年五月には,八王子医療刑務所が設けられた。女子受刑者の処遇も,戦後,注意のはらわれたものの一つである。昭和二一年に,和歌山刑務所があらたに独立の女子刑務所としてつけ加えられ,女の所長が任命された。さらに,懸案であった癩受刑者のために,熊本県に菊池医療刑務支所が設けられ,昭和二八年から,ライ患者を収容することになった。昭和三二年七月には,中野刑務所が設けられ,ここに本格的な「分類センター」がおかれた。
 収容者の一般的な処遇については,戦後,まもなく,監獄法の改正が議題にのぼったが,その改正をまつまでもなく,諸種の措置がとられた。そのおもなものは,
1 受刑者の衣類は,茶褐色を廃し,全面的に浅葱色を採用することになった(昭和二二年)
2 暗室に拘禁する懲罰である重屏禁は,実際上廃止された(昭和二二年)
3 食糧の給与が改善された(昭和二四年)
4 宗教教誨については,憲法との関係上,従来の教誨師制度は廃止したが,日本宗教連盟内にあらたに宗教教誨中央委員会がおかれ,各宗派の布教活動はさかんになった(昭和二三年)
5 受刑者の作業時間は,実働八時間制を採用した(昭和二一年)
6 一般に,視聴覚教育活動や,レクリエーション活動が活発になった
7 犯罪者予防更生法の実施に刺激されて,釈放時の配慮が活発になった
8 篤志面接委員を新設し,収容者処遇について,部外の人びとの援助をうける途をひらいた(昭和二八年)
などである。
 つぎに,婦人補導院について一言すると,昭和三一年に売春防止法が制定され,売春を禁ずるとともに,勧誘行為を犯罪として刑事処分に付するほか,更生保護の措置を認めたのであるが,昭和三三年には補導処分を追加した。この処分は,勧誘などの罪を犯した満二〇才以上の女子に対して,刑の執行を猶予してこれに付するものである。この補導処分のために,婦人補導院が設置された。