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 昭和35年版 犯罪白書 第三編/第一章/六 

六 釈放者の保護

 刑務所を釈放された者に対して,どのような処置がとられていたかを顧みよう。かつては,免囚保護とも司法保護ともよばれ,今日では更生保護とよばれているものである。
 明治一四年の監獄則は,「別房留置」の制度を定めた。この制度は,「刑期満限ノ後頼ルベキ所ナキ」者や,仮出獄者でおなじく住居や引取人のない者や警察監視に付する者をその本人の願い出によって,監獄内の別房にとどまるのを許すものであって,いわば,官営の更生保護会である。しかし,当時,自由刑の大幅な採用によって,受刑者の数は急速に増大し,これを収容する監獄じたいだけでも,その経費は加速度的に膨脹し,政府は,年とともに,その財政的負担に苦しむようになり,一方,釈放者を保護する別房留置の制度そのものに対する批判的意見も強まり,ついに,明治二二年(一八八九年)の改正監獄則によって,再犯防止を目的としたこの別房留置の制度は,廃止のやむなきにいたり,以後,ながく,政府は釈放者の保護については,もっぱら民間事業に頼ることとし,民間保護施設の設立をとくに勧奨することとなった。
 これと前後して,識者のあいだには,釈放者の悲惨な境遇に同情し,すすんでその保護にあたろうとし,出獄人保護事業を民間で行なおうと唱える人びともでて,ついに,明治二一年(一八八八年)金原明善翁によって「静岡県出獄人保護会社」が設立された。これは,わが国最初の民営の保護施設で,今日の更生保護会静岡県勧善会は,その後身として,この創立者の精神と事業をひきついで更生保護事業を経営している。
 ともあれ,この静岡県出獄人保護会社の設立に刺激されて,そののち,京都,東京,沖縄,新潟,埼玉,大分,山口,愛知,三重の各府県をはじめ,全国各地に,同様の免囚保護施設が設立されたが,明治三〇年英照皇太后の崩御による恩赦で一万五千数百人の出獄者をみるにいたり,社会一般の更生保護に対する関心がたかまり,免囚保護会急設の必要が叫ばれるにいたった。ついで,明治四〇年(一九〇七年)の刑法の改正にさきんじて,明治三八年に,刑の執行猶予制度が採用されるとともに,執行猶予になった者も,保護の対象に加えられるようになり,保護の範囲も拡大されるにいたったが,これらに対応して,改正刑法の施行と併行して,免囚保護事業奨励費取扱規程がさだめられた。こうして,明治四五年(一九一二年)には,保護事業を営む者の数は,一〇八(うち,収容保護を行なうもの六八)を数えるにいたった。なお,これよりさき,従来,監獄事務とともに,免囚保護に関する事務も内務省の所管であったのが,明治三三年にいたり,いずれも,司法大臣の監督下におかれることとなり,ここに,検察,裁判,行刑および出獄人保護の仕事が一省に統轄され,刑事政策の一元化が実現したわけである。
 明治天皇の大葬にさいし,恩赦(大正元年九月二六日)が行なわれたが,政府は,この恩赦に浴した者がふたたび犯罪に陥ることのないよう,とくに民間篤志家によびかけて保護の万全を期そうとした。このとき,仏教の各宗派が積極的に当局と連絡をとって,この出獄人の保護に尽力することとなったのは特記すべきことであって,このため,大正元年から大正二年にいたる二ヵ年のあいだに保護団体の設立の数は,過去二四年間の設立数の一倍半という急激な増加を示し,その数は二百有余におよび,そのうちには,福井県福田会のように,一箇の収容施設でなく,全県下に保護委員を配置し,収容保護と観察保護とをかねた方法を採用し,のちの司法保護委員制度の先駆をもなす組織もうまれたのであって,この大正二年は,わが国の更生保護の歴史上注目すべき年となった。そして,政府も,これら多数の保護団体の指導統制と助成,事業従事者の養成訓練,保護思想の普及宣伝などをはかるため,中央保護会を設置してこれにあたらせることとなったのである(中央保護会は大正三年財団法人輔成会に発展的解消をとげた)。
 その後,大正一三年(一九二四年)には刑事訴訟法が改正され,起訴猶予制度が法定されるにいたったため,起訴猶予者および微罪釈放者の激増をみるようになり,これらのうちもっぱら身寄りのない者を収容保護する保護団体も設立され,これと前後してはじまった少年のみを対象とする少年保護団体の出現とともに,事業そのものの名称も,免囚保護を釈放者保護にあらため,少年保護を加えて司法保護と総称することとなり,ようやく,罪を犯した者のすべてを保護の対象に包含することとなったのである。かくて,昭和二年には,司法保護団体の総数は七四五を数えた。
 少年保護の方式とその発達(少年保護司の観察と保護団体への委託保護)は,一般釈放者に対しても,国による更生保護運営の一つの方式を示したのみならず,これに対する民間のボランティアーのはたしうる役割と法的な位置づけをも暗示したことになり,保護団体全般の法制化の気運が急速に盛りあがることとなった。そして,ついに,昭和一四年にいたり,司法保護事業法の公布施行をみることとなったのである。
 この司法保護事業法によって,永年にわたり民間の保護事業家の善意にゆだねられてきた釈放者保護も,はじめて国家の責任において運営されることが明文化されたが,この法律の中核となるのは,保護団体に対する指導監督および助成の強化と,司法保護委員制度の創設とである。とくに,司法保護委員制度の法制化によって,従来観察保護のみを行なうことを目的とし収容施設をもたない保護団体は廃止されて,観察保護には,個人すなわち司法保護委員があたることとなり,施設をもつ保護団体は,一時保護と収容保護とのみを目的とすることとなったのである。
 司法保護委員は,司法大臣の委嘱によって,観察保護に従事するため,「保護区」に配属されるとともに,保護区ごとに区司法保護委員会を組織し,上部機関たる司法保護委員会(地方裁判所の管轄区域ごとにおかれた)を通じて,国家の意志につながる体制が確立されたのである。
 こうして,昭和一四年以降,わが国の更生保護活動は,(1)起訴猶予者,(2)刑執行猶予者,(3)刑執行停止者,(4)刑執行免除者,(5)仮出獄者,(6)満期出獄者および少年法による保護処分少年などを対象とすることになった。そして,その機関として,(a)少年に対しては少年審判所(嘱託少年保護司を含む)と,少年保護団体が,(b)思想犯に対しては,保護観察所(嘱託保護司を含む)と,保護観察審査会と思想保護団体とが,(c)その他の一般犯罪前歴者に対しては,司法保護委員会と司法保護委員とが,それぞれ更生保護を実施していくこととなり,国家の総合的規制のもとに,ようやく高度の刑事政策的性格を明確にしつつ,行なわれることになったのである。