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 昭和43年版 犯罪白書 第三編/第二章/三 

三 少年保護および更生保護関係制度

 明治元年五月,江戸に鎮台府がおかれるや,江戸時代には病監と少年監であった品川,浅草の両溜は,鎮台府に所属することとなったが,同年七月,東京府に移管され,明治三年一月には,刑部省の所管となった。
 明治五年一一月,監獄則が制定されたが,第一〇条に懲治監の規定を設け,二〇歳以下の懲役満期にして,再犯のおそれのある少年を留めて生業を勉励させることとした。同七年七月には,成年,未成年を問わず,親族の情願があれば,懲治監に入れることを許可し,同一一年五月には,年齢二一歳以上の者で,しばしば獄則を犯し,満期になっても改悛しない者については,二〇歳以下の者に準じ,説諭を加えて,懲治監に留置することとした。明治一三年布告の刑法は,懲治場留置を定め,翌一四年制定の監獄則は,監獄に懲治場を設けることにし,刑法不論罪の者および不良の子弟で親などの請願による者を収容することとした。
 しかし,懲治場での処遇の実際は,一般犯罪者の自由刑の執行と大同小異であったため,民間では,感化院設立の機運が高まり,明治一八年一〇月,東京に私立予備感化院(後の少年保護団体錦華学院)が設立されたのを始めとして,同二一年八月には私立岡山感化院,同二二年二月京都感化保護院が設立され,その後,各地に,漸次,私立感化院が設立されるに至った。なお,同三二年一一月には,東京巣鴨に,少年収容保護の施設である家庭学校が設立されている。同三三年三月,感化法が公布され,道府県立の感化院の設置を規定したので,同三五年四月,神奈川県立感化院として,神奈川県薫育院が設立されたが,その後は進まず,この種の感化院が設けられたのは,わずかに東京,大阪,神奈川,埼玉,秋田の二府三県にすぎなかった。
 ところで,懲治場および少年監獄についてみると,明治三五年一二月,川越支署は,一六歳未満の幼年男囚および懲治人(聾唖者および女子を除く。)の集禁場に指定されたが,その後,明治三九年三月までに,七尾,唐津,熊谷,沼津,長岡,中村(福島県),洲本,金沢が指定された。明治三六年一〇月には,川越分監は,純然たる懲治監となり,非公式に川越児童保護学校の標札を掲げ,もっぱら,少年の教育に努めることとなった。また,同三九年二月には,小田原分監が幼年特別監に指定され,小田原少年保護会(後の幼年保護会で,少年保護団体の初めとされている。)が創立され,九月には,洲本分監で,海上感化船を由良港に係留し,これを使用して懲治人の収容を始めた。明治四〇年一月,唐津分監が懲治人特別監となり,二月には,岩国分監が男子の幼年監に指定され,七月には,小田原分監が懲治場に指定された。
 明治四一年に,現行法である刑法および監獄法が施行され,懲治場処分は廃止となり,監獄法は,少年について特設監獄を設けることを明らかにした。明治四四年三月,洲本感化船の設備は廃止され,同年七月,唐津分監は懲治場を閉鎖し,福岡,久留米,小倉,佐賀,大分監獄に収容する一八歳未満の幼年囚を拘禁するところとなり,また,同年一二月,川越分監は,少年受刑者の収容区域を拡張し,東京,千葉,前橋,甲府の四監獄に拘禁されている,一八歳未満の受刑者で,刑期三月以上の者を集禁することとなった。
 大正六年八月,国立感化院令が公布され,翌七年二月には,最初の国立感化院として,武蔵野学院が埼玉県に設けられることとなった。
 大正一一年四月,少年法が公布され,少年に保護処分をなしうることとなり,少年の審判のため少年審判所をおくことを規定したが,同所から送致した少年を収容する国立の施設である矯正院について定めた矯正院法も公布され,同年一二月,矯正院として,東京に多摩少年院,大阪に浪速少年院が設けられた。翌一二年一月,東京少年審判所および大阪少年審判所が設置され,前者は東京府および神奈川県を,後者は大阪府,京都府および兵庫県を管轄することになった。その後,昭和八年一二月,矯正院として愛知県に瀬戸少年院が設けられ,翌九年一月,名古屋少年審判所が設置されて,愛知県,三重県および岐阜県を管轄することとし,昭和一三年一月,福岡少年審判所が設置されて,長崎県,佐賀県,福岡県および熊本県を管轄することとし,また,矯正院として福岡市に福岡少年院が設けられた。昭和一六年一月,広島少年審判所が設置されて,広島,山口,岡山,鳥取,島根および愛媛の各県を管轄することとなり,矯正院として広島市に広島少年院が設けられたが,これと同時に,東京少年審判所および大阪少年審判所の管轄区域が拡張された。昭和一七年一月,仙台少年審判所および札幌少年審判所が設置され,仙台少年審判所は東北六県,札幌少年審判所は北海道および樺太を管轄することになるとともに,各少年審判所の管轄区域を拡張して,全国に及ぼした。また,矯正院として,仙台市に仙台少年院,札幌市に北海少年院がそれぞれ設けられた。その後,昭和二一年六月,静岡,長野,京都,高松,金沢,松江,熊本,秋田の八少年審判所と香川県に矯正院として四国少年院が設けられ,翌二二年四月には,前橋,神戸,旭川の三少年審判所と,矯正院として,東京,榛名,河内,美保の四少年院が設けられた。
 昭和二四年一月,現行の少年法が施行されて,少年審判所および矯正院は,家庭裁判所および少年院に代わることになった。なお,そのとき現在の少年審判所は,東京少年審判所ほか一七であり,矯正院は,多摩少年院ほか一一であった。
 一方,大正一一年公布の少年法に定められた保護処分の一つである委託保護をなす保護団体として,同年一一月,千葉県に財団法人星華学校が設立されたが,その後この種団体が急速に増加したので,翌一二年五月,少年保護事業の発達を図り,少年保護団体の指導連絡にあたるため少年保護協会が創立された。同協会は,昭和三年二月,財団法人日本少年保護協会に発展し,昭和一二年八月,一般釈放者保護団体である輔成会および思想犯保護団体である昭徳会と連合して,全日本司法保護事業連盟を結成し,昭和二四年一二月には,三団体が合同して財団法人司法保護協会を設立した。
 次に,太平洋戦争前における免囚保護などの制度をみると,まず,明治一三年制定の旧刑法は,仮出獄制度および釈放後の監視制度を規定した。一方,明治一四年制定の監獄則は,別房留置の制度を定めている。この制度は,満期になったが,たよるところのない者,仮出獄者で住居や引取人のない者および刑法の監視処分に付された者のうち住居や引取人のない者などを,監獄内の別房に留置し,生業等を営ませるもので,いわば官営の更生保護施設といえる。しかし,この制度も,財政上の理由などにより,明治二二年の監獄則改正で,法律上廃止され,その後,釈放者の保護は,もっぱら,民間事業にたよることとなった。
 民間では,明治一六年一〇月,原胤昭が,その家庭を免囚の保護所にあてた。同二一年三月,免囚保護のための組織的な民間施設の初めとされている静岡県出獄人保護会社(現在の静岡県勧善会)が創立されたのを始めとして,別房留置制が廃止された同二二年には,東京出獄人保護会(現在の斉修会),新潟県出獄人保護会(現在の新潟県保護会),沖縄放免者保護会(後の沖縄自営会)が創設された。また,同二三年一月には埼玉慈善会保護院(現在の埼玉自彊会),六月,大分県出獄人保護会(現在の豊州保護会),九月,下関保護院(現在の下関仏教同盟済世会),同二七年三月,愛知県出獄人保護会(現在の愛知自啓会),九月,三重県免囚保護会(現在の三重県保護会),同二八年七月,愛媛県保護場(現在の愛媛県更生保護会),米沢商会保護部(後の米沢自彊会),八月,岡山保護院,同二九年二月,網走に寺永慈恵院(現在の網走慈恵院),同三〇年一月,東京出獄人保護所(原寄宿舎),同三八年一月,福島保護会(後の遷喬会)などが,相次いで設立され,免囚保護にあたった。なお,明治三八年に刑の執行猶予制度が採用されたのに伴い,これらの執行猶予者も免囚とあわせて保護の対象とされるに至った。
 大正元年九月,明治天皇大喪につき,大赦五三三人,特赦八,〇八五人などの広範囲にわたる恩赦が行なわれたが,この者たちの更生保護のため,札幌記念保護会(現在の札幌大化院)を始めとして,多数の保護団体の設立が促進された。そして,これら多数の免囚保護団体の指導,連絡,統制のため,大正二年二月,中央保護会が設立されたが,同会は,翌三年七月,財団法人輔成会に発展した。
 大正一三年一月施行の旧刑事訴訟法は,起訴便宜主義を採用したため,刑の執行猶予者に加え,新たに起訴猶予者をも収容保護する施設が設立されるようになった。また,事業の名称も,従来の免囚保護から,釈放者保護,猶予者保護となり,これに少年保護を加えて,司法保護と総称されることになった。
 昭和一〇年九月,思想犯保護事業の全国的指導,助成を目的とする財団法人昭徳会が創設されたが,翌一一年五月には,思想犯保護観察法が公布され,同年一一月,治安維持法に違反した釈放者らの保護観察を実施すべく,東京ほか二一か所に保護観察所が設置された。
 また,昭和一四年九月には,各地方裁判所管轄区域ごとに,司法保護委員会が設置されるとともに,猶予者,仮出獄者,保護処分を受けた少年らの保護を行なう司法保護委員が,全国におかれた。
 昭和二三年七月,少年院法が公布され,矯正院法は廃止されることになり,少年院の種類を初等少年院,中等少年院,特別少年院および医療少年院の四種としたが,これに伴い,同年一二月少年院令が公布され,少年院を多摩少年院ほか二四少年院とし,次いで,少年観護所令および少年鑑別所令を公布し,各家庭裁判所所在地四九か所に少年観護所および少年鑑別所を設置した。なお,昭和二五年四月,少年観護所と少年鑑別所は,統合して少年保護鑑別所となったが,昭和二七年八月少年鑑別所と改称した。
 昭和二四年七月,法務府の外局として中央更生保護委員会をおき,その地方支分部局として,高等裁判所所在地八か所に地方少年保護委員会および地方成人保護委員会を,また,各委員会の事務部局として事務局をおき,その事務を分掌するため,各家庭裁判所および各地方裁判所所在地に,それぞれ,少年保護観察所と成人保護観察所を設けた。昭和二七年八月,中央更生保護委員会を廃して法務省に保護局をおき,中央更生保護審査会を設け,更生保護関係の地方機関を簡素化し,地方少年保護委員会と地方成人保護委員会とを統合して地方更生保護委員会とし,少年保護観察所と成人保護観察所を統合して保護観察所とした。