前の項目   次の項目        目次   図表目次   年版選択
 昭和40年版 犯罪白書 第一編/第三章/一 

第三章 犯罪の原因と背景

一 序説

 この章では,従来の科学的研究において犯罪発生に原因力を有すると主張された条件について概略的説明をする。
 犯罪(少年については犯罪以外の非行を含む。以下この章において同じ)がある場合に,「何がその原因であるか」と問い,これに対して,たとえば「精神障害が原因である」とか「貧困が原因である」とかいう単一的な答えを期待するのが常識的な考え方であるが,事柄は,しかく簡単なものではない。これまでの多くの研究結果によれば,犯罪の発生はきわめて複雑な多くの条件の組合せに因るとされている。のみならず,近時の有力な学説としては,犯罪発生の諸条件のうちのどの一つに対しても他のものよりも優越した原因力を認めることを躊躇し,もししいて一言で原因を示せというのであれば,諸条件の組合せそのものこそ原因と言わざるをえないというものさえある。この章の題名に「原因と背景」という語を使用したのは,このように原因が簡単にはわかりがたいとされる事実を考慮したということ以外に深い意味はなく,「犯罪発生の原因および原因と疑われる諸条件」という程度に理解されればよいものである。
 さて,犯罪は刑罰法令に触れる行為であるが,刑罰法令の内容は時と所によって変動しうる相対的なものであるから,およそ犯罪とかその発生条件とかについて永久不変,普遍妥当の命題をうち立てることは不可能であるとの説がかつてとなえられたことがある。しかし,これは,今日の通説ではない。むしろ,一九世紀末頃以来,多くの研究者は,犯罪とは社会の規律に違反し,それから逸脱する個人の行動,または社会の規律に対する個人の不適応行動(そして,そのような個人はどのような社会にも存在すると考えられる)であるとして,犯罪発生原因の究明に努力を重ねて来た。そして,ある研究者たちはこの問題を行動主体である個人の素質の面から考究し,たとえば精神薄弱などの素質的事実(以下内的因子という)が犯罪発生の有力条件ではないかということを解明しようとした。また,他の研究者たちは行動主体としての個人をとりまく環境の面に着目し,たとえば貧困などの環境的事実(以下外的因子という)が犯罪発生の有力条件ではないかということを解明しようとした。その結果は,素質または環境のいずれの一方の面からも問題を解決することができず,犯罪は要するに素質と環境との相関関係すなわちある内的因子とある外的因子との組合わせに因って発生するという考え方に到達した。ところが,これと並んで,このような従来の考え方を静力学的と評しつつ,みずからを動力学的と称する見解が生ずることとなった。すなわち,それによれば,多数の内的因子と外的因子は相互に影響し合う可能性を持つものであり,詳述すれば,特定の個人がこの世に生を受けてから犯罪に至るまでの間に,その内的因子が内的因子と,またその外的因子が外的因子と影響し合うほか,内的因子と外的因子との間にも相互影響の関係が成立するが,これらの複雑な影響関係から犯罪が発生するというのである。
 次に,特異なものとしてグリュック夫妻の研究がある。それは,生物学,精神医学,心理学,社会学などの諸科学の知識を応用するとともに,計量的方法により,犯罪などの原因に関していわば総括的な研究を試みたものである。
 思うに,学問的な正確を期するならば,いわゆる動力学的犯罪理論が最も正当であるかも知れない。しかし,その説くところは一般人にとっては難解であるとともに仮説的説明を包含する部分もあり,その意味で必ずしも実際的ではない。他方,静力学的とされる諸見解といえども犯罪発生現象のいわば重要な側面の解明に役立つものであり,またそれは,仮に原因論としては学問的に批判の余地のあるものであるとしても,沿革的にも理論的にも動力学的理論に対し基礎的資料を提供したという意味において,十分に研究を要するものと考えられる。
 右のような考慮から,以下には素質および環境に関する従来の主要な研究について説明し(要すればその際に動力学的考え方にも触れることがある),さらに動力学的犯罪理論およびグリュック夫妻の研究について簡単に説明をする。