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 昭和35年版 犯罪白書 第二編/第一章/五/5 

5 無罪

 無罪は,主として,犯罪の証明がないときに,言い渡される。「疑わしきは,被告人の利益に従う」という格言がある。これは,有罪か無罪かの心証がつきかねる場合には,被告人の利益にしたがって無罪を言い渡すべきだ,という意味であろう。有罪か無罪かの判断は,過去におけるある時期にある犯罪が特定の人によって行なわれたかどうかについての判断で,それは,主として人的物的の証拠によるのである。ところで,きめ手となる物的証拠があればよいが,すべての場合にそのような物証が提出されるわけのものではなく,証人の供述をたよりに判断しなければならない場合もあって,その判断は容易なものではない。とくに,目撃証人のように,それだけで白か黒かを決めることのできる証人があればよいが,そのような場合はむしろ稀れで,多くの場合は,なん人かの証言を総合して有罪か無罪かの判定をするほかない。人の記憶は,正確なようで案外思いちがいもあり,また,時の経過とともに薄れるもので,その経験したときからあまり時間がたたないうちに聞かないと,正確な供述は得られない。ところが,わが国の裁判は,争われる事件にかぎって審理が遅延し,相当期間を経過した後に証人調のされることが多いので,裁判官が有罪か無罪かの心証を得るのに,苦労することが少なくない。しかし,有罪か無罪かは,無罪を主張する被告人にとっていちばんの関心事であるとともに,刑事裁判のもっとも重大な問題なので,裁判の重点は,主としてこの問題にかかってくる。真に罪を犯さない者が有罪の判決をうけることがあってはなちないとともに,真に罪を犯した者が無罪の判決をうけることもあるべきでない。裁判は,真相に合致した判断を下さなければならないわけであるが,神ならぬ人間のすることだから,その判断に迷い,有罪か無罪かはっきりした心証の得られないこともある。かような場合には「疑わしきは,被告人の利益に従」って,無罪を言い渡すのである。
 裁判で無罪となるものには,右の犯罪の証明がない場合のほか,心神喪失とか,罪とならずなどの理由による場合がある。II-55表は,昭和二年からの九年間と,昭和二三年からの一一年間につき,第一審の終局被告人数とその無罪率をあげたものであるが,戦後の無罪率は,昭和二四年から昭和二六年までは高率を示し,その後は,年をおって漸減してきた。その高率を示した理由として考えられるのは,昭和二四年から昭和二六年は,現行刑事訴訟法の施行当初であったため,捜査官がこの法律に対する理解の不十分であったために生じた現象と考えられ,漸減を示したのは,新しい手続法に習熟してきたともいえよう。

II-55表 通常第一審終局被告人中の無罪人員と率

 かように,無罪率は,わずかに一パーセント前後であるが,この率は,戦前とさしてかわりがなく,諸外国にくらべて,いちじるしく低い。それは,検察官が起訴するさいに,原則として直接に取調をし,犯罪の嫌疑の濃厚な事件だけにしぼって起訴手続をとるからであろう。
 刑法犯と特別法犯とに分けて,無罪率をみよう。II-56表は,刑法犯が特別法犯にくらべて無罪率の低いことを示している。ことに,刑法犯については,無罪率が年とともに減少している。無罪率が〇・五パーセントというのは,千人に五人の割合で無罪があるということで,いちじるしい低率だといえよう。

II-56表 刑法犯・特別法犯の無罪人員と率

 以上は,第一審における無罪率であるが,控訴や上告の結果,無罪となる場合もある。II-57表には,控訴審および上告審で,原判決を破棄して無罪を言い渡した数をあげたが,上告審では,範囲のかぎられた法律審であるだけに,その数がきわめて少ない。控訴審では,一パーセント弱で,第一審の無罪率とほぼおなじといえよう。控訴審で破棄自判して無罪を言い渡すのは,第一審で有罪の判決がされた場合であるから,有罪の証拠がいちおう揃っている事案とみてよいが,さらに慎重な審理をして無罪を言い渡したものであろう。

II-57表 控訴審・上告審の破棄自判による無罪人員と率

 有罪判決が確定しても,その後にあらたな証拠が発見されたり,有罪の資料となった証拠が偽造または変造されたものであることが確定判決により証明されたり,または,有罪の資料となった証拠が虚偽であることが証明されたような場合には,再審の請求をして無罪の判決を求めることができる。また,有罪判決をした事件の審判が法令に違反したものであるときには,検事総長は,最高裁判所に非常上告を申し立てて,その判決の破棄を求めることもできる。II-58表には,地方裁判所,高等裁判所,最高裁判所ごとに再審の結果をあげ,また,非常上告の結果をもあわせて示したが,これによると,再審の請求が受理され,審理の結果無罪となったものが,昭和二八年から昭和三三年までの五年間に合計二三人あったことがわかる。

II-58表 再審・非常上告の結果別人員(昭和28〜33年の合計)

 このように無罪率をみてゆくと,わが刑事裁判では,無実の者が起訴されて無罪となる場合はもちろん,有罪判決の確定した後に再審の請求をして無罪となる場合も,きわめて少ないといえよう。