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 昭和43年版 犯罪白書 第三編/第三章 

第三章 犯罪の推移

 明治以来の犯罪の推移を概観するため,刑法犯のうち,窃盗,詐欺,賭博,殺人,強盗等の主要犯罪および刑法犯総数について,その検挙人員または検挙件数を統計資料の許すかぎり年次をさかのぼって示したのが,III-1表である。前述したとおり,現行刑法は,明治四一年一〇月一日から施行されたものであり,明治初年ごろには新律綱領,改定律例等が,明治一五年一月一日から現行刑法施行までは,いわゆる旧刑法が行なわれており,当時は,現在では特別法犯とされているような犯罪も刑法典中に規定されていたものがあったばかりでなく,各罪名についても,その包含する犯罪行為の態様が現行刑法と一致しないものが少なくない。そのうえ,各時代によって統計の作成方法も異なり,とくに,昭和三年から一五年までは,すべて検挙件数による集計が行なわれて,検挙人員についての統計を欠いており,また,年次によっては,詐欺と恐喝,傷害と殺人の合計数しか知りえないもの,あるいは,賭博中に富くじを含めるもの等があって,明治初年以来,一貫した数字を挙げることはきわめて困難である。さしあたり,ここでは,現行刑法に規定されている主要犯罪のうち,比較的,同一範囲の犯罪行為についての検挙人員を知りうるものを選び,そのおおよその推移を概観することとした。以下,窃盗その他の財産犯を中心としながら,その推移をながめることとする。
 明治九年の窃盗の検挙人員は,約二万二千人であったものが,明治一三,四年には,三万四千人前後と増加しているが,翌一五年には,二万六千人弱に激減した。賭博の検挙人員の増減についても,同じ現象がみられるが,同年は,旧刑法と治罪法の施行をみた年であって,このように,暗数の多くなりがちな罪種について,検挙人員が激減した原因は,犯罪者検挙の手続等に,少なからぬ変革があったことにあるものとされている。
 明治一六,七年ころの,わが国の経済界は,深刻な不況に見舞われ,生活に苦しむものが多かったが,窃盗の検挙人員は,一六年の三万六千余人から,一八年の約六万二千人と急増し,詐欺と恐喝の検挙人員も,約二割の増加を示している。その後二,三年間は,各罪名についても,検挙人員の減少がみられるが,米価暴騰により各地に米騒動が頻発し,わが国最初の資本主義恐慌を迎えた明治二三年に至ると,窃盗の検挙人員は,前年より二万七千人以上,約五六%増加して,七六,七三二人となり,詐欺および恐喝が約三千人,強盗が約六百人の増加となっている。また,賭博や傷害,殺人の検挙人員も,明治二二年から二三年にかけて,大幅な増加を示し,その後,起伏はありながらも,日清戦争後の不況を迎えた明治三〇年から三一年ころまで,高い水準を保っている。
 明治二三年に次いで,検挙人員の急増がみられるのは,米価が暴騰し,全国各地で米騒動が多発した大正七年である。明治四二年の刑法犯検挙人員総数は,約二一万三千人であったが,増加して大正七年の約三五万六千人に至り,その前後での,一つの頂点となっている。総人口の推移を示したIII-2表によって,人口一〇万人当たりの検挙人員を計算すると,明治四二年が四三九人であるのに対して,大正七年は,六五一人となっている。窃盗の検挙人員は,大正六年から七年にかけて,約一万人増加し,詐欺および恐喝も約二千人,賭博が約三千人の増加となっており,ことに,強盗は,九〇三人から一,五四〇人に急増していることが注目されよう。
 第一次世界大戦は大正八年に終わり,早くも,翌九年には,戦後の反動恐慌が起こっている。さらに,大正後期には,軍縮が始まり,経済界は長い不況の時代を迎えることとなるのである。刑法犯の検挙人員は,大正八年以降減少して,一〇,一一年ころには,二六,七万人であったものが,大正一二年には一躍三〇万人をこえ,昭和二年には,四一三,四五四人,検挙件数では,六八九,六四六件に達している。各罪名の検挙人員も,刑法犯の総数とほぼ同様の傾向を示しており,窃盗は,昭和二年に,九万八千余人と,大正七年の九万二千余人を上回り,詐欺および恐喝も,昭和二年に七万人を,賭博は,一〇万人を,それぞれこえて,その時までの最高となっている。
 昭和三年から一五年までは,いずれの罪名についても,検挙人員の統計を欠いているため,それ以前との比較がやや困難であるが,刑法犯の検挙件数は,昭和三年以降も漸増を続け,世界的な大恐慌期を迎えて,わが国の失業者数が三二万人に達した昭和五年には,前年から一挙に一六万余件増加して一〇〇万件をこえ,昭和八年には一五〇万件となり,昭和九年には,一,五三一,五四〇件に達した。この数字は,検挙件数について統計の存する,大正一二年以降四五年間の最高の数字である。窃盗の検挙件数も,二〇万件台から増加して,昭和五年に四〇万件をこえ,昭和九年には,五七一,二九五件と,これも戦前最高の数字を示し,詐欺も,昭和八年,九年,一〇年の三年間は,検挙件数が四〇万件をこえて,戦前戦後を通じて,最高となっている。恐喝の検挙件数も,その前後に比較して著しく増加して,昭和六年から一二年にかけて,引き続き一万件をこえ,ことに,暴力団体に対する取締りが全国的に実施されたといわれる昭和一〇年には,三六,二二六件にも達している。
 昭和七年,満洲国建国宣言,昭和八年,日本およびドイツの国際連盟脱退,昭和一〇年,ドイツ再軍備宣言,昭和一二年,蘆溝橋事件発生と,相次いで国際情勢が緊張し,これに伴う軍需産業の振興が,雇用を増大させた。刑法犯の検挙件数は,昭和一一年以降減少に転じて,昭和一七年の七〇万件弱に至っており,それぞれの罪名についても,おおむね同様の傾向を示している。太平洋戦争中は,詐欺,恐喝,傷害,殺人,強盗といった犯罪は少ないが,窃盗と賭博で検挙される者,あるいは,検挙される件数の比較的多いことが特色となっている。ことに,賭博は,昭和一八年の検挙人員一〇五,三一一人と,検挙人員について統計を欠く,昭和二年から一五年までの間を除いては,戦前戦後を通じて最高の数字となっている。検挙件数も,六万四千件弱と,これも,大正一二年以降最高の数字となっているが,大正末期,あるいは最近数年間は,賭博の検挙件数一件当たりの検挙人員が,三人,またはそれ以上であるのに対し,昭和一八年のそれは,約一・六人に過ぎず,検挙された事件の質に,ほかの時代とは,やや異なるものがあるのではないかと思われる。
 戦後,貧困と混乱の時代に,刑法犯を犯して検挙される者が,急激に増加した。窃盗についてみると,戦争末期の検挙人員が,一三万人台であったのが,昭和二一年には,約二七万人,昭和二六年には,三一八,七一六人に達して,戦前戦後を通じて最高となっている。同年の検挙件数と比較すると,検挙人員一人当たりの検挙件数は,約一・八件となり,これを,たとえば,昭和二年の約二・九件,昭和四二年の約二・七件と比較すると,著しく低く,この時代の窃盗犯の,一つの特色を示しているように思われる。次に,戦前に比較して,最も著しい増加を示したのは強盗である。強盗は,明治一三,四年から明治二四年ころまでは,検挙人員が,二千人前後から三千人をこえた年もあったが,その後は,多くても,千五百人前後にとどまっていた。ところが,昭和二一年の強盗の検挙人員は一万人をこえ,昭和二三年には,一三,五八八人と,戦前戦後を通じて最高の数字となった。その他,詐欺,恐喝,傷害,殺人等についても,増加が著しく,その結果,刑法犯の検挙人員総数は,昭和二五年に,五八七,一〇六人と,昭和三七年までの,前後二〇年あまりの間の最高を示すに至っている。人口一〇万人当たりの検挙人員は,七〇六人と,大正七年の六五一人を上回り,太平洋戦争が始まった昭和一六年の四五二人とは比較すべくもない数字である。
 戦後の,極端な生活難の時代が終わりに近づくにつれて,財産犯に減少の色がみえ始めた。窃盗は,昭和二七年以降,詐欺は,昭和二九年ころ以降,起伏はありながらも,おおむね減少の傾向を示している。また,強盗も,昭和二五年以降,同様の傾向にある。ところが,傷害は,逆に,昭和二五年ころに急増し,以後漸増して,昭和三三年には,九〇,四一四人の検挙人員を算して,戦前戦後を通じて最高の数字を示し,その後も,七万人以上を保って,昭和四二年に至っている。恐喝については,昭和二六,七年ころ減少に転ずるかにみえたが,同二九年ころから,再び増加し,昭和三六年に,検挙人員二六,〇九九人となり,その後,やや減少しているが,なお,戦前に比較して,きわめて高い水準にあり,これらの点が,最近における犯罪の推移の特色をなすものであろう。なお,殺人については,特に顕著な変動は見当たらず,賭博については,第一編に触れたところである。
 ところで,刑法犯の検挙人員数は,昭和二六年以降,いったん減少の傾向を示したものが,昭和三二年以降,再び増勢に転じ,昭和三八年には六〇万人をこえ,昭和四二年には,八〇二,五七八人と,検挙人員について統計のない,昭和三年から一五年の間を除いては,最高の数字となっている。右の一三年の期間内には,検挙件数が,昭和四二年を上回っている年次が八年間含まれているが,この当時は,一人で数件を犯すことの多い財産犯の占める割合が高かったことを考慮すると,昭和四二年の検挙人員数は,明治九年以降最高と考えてよいであろう。人口一〇万人当たりの検挙人員も八〇一人と,これも最高の数字である。そこで,昭和四二年と,その二〇年以前で,敗戦直後の混乱期を代表するものとして昭和二二年,さらにその二〇年以前にあたり,しかも,統計の存する限りでは,戦前に最も刑法犯検挙人員数の多かった昭和二年の,三つの年次において,検挙人員総数中に占める罪名の構成比を図示して,その時代相をみようとしたのが,III-1図である。窃盗と賭博が首位の座を争っていた戦前,窃盗が過半数を占めた敗戦直後の生活苦の時代,業務上過失致死傷が過半数を占めた交通戦争時代の,それぞれの時代の特色が,如実に示されているように思われる。

III-1図 刑法犯検挙人員主要罪名別構成比(昭和2,22,42年)

 犯罪には,刑法犯だけでなく,各種の特別法違反があり,犯罪現象をみる上で欠かすことはできない。このような特別法犯を含めた,犯罪の推移を概観するには,各種の捜査機関の捜査した事件が,集中的に送致される検察庁(検事局)の新受事件数によることが適当である。III-3表および4表は,検察庁の受理および処理状況を累年比較したものである。年次によって,事件数と人員数の,いずれか一方を欠く場合があり,また,検察庁間の移送および再起の件数を除いた新規受理件数が,明治二三年以前は不明であり,新規受理人員については,昭和二四年以降の集計があるのみであるが,おおよその傾向を通観することは可能であろう。
 明治一五年の新受件数は約一三万件であったが,明治二四年には約二三万件に増加した。これは新規受理件数では約二一万件となっている。その後は,日露戦争後の数年間を除いては,おおむね漸増の傾向にあり,大正一四年には,新規受理件数が三〇万件をこえ,昭和六年に四〇万件をこえて,昭和九年の五〇五,五四一件に達したが,その後は減少に転じて,昭和一三年以降一九年までは,三〇万件台に落着いている。今次大戦後は,急激に増加し,昭和二四年には,約一四二万件,新規受理人員では,約一六六万人に至り,その後,一時減少するかに見えたが,再び増加に転じて,昭和三六年から三七年にかけては,一年間に,新規受理人員が一二〇万人以上増加するといった現象を呈し,昭和四〇年には,五,九二二,四八九人と最高の数字を示すに至った。昭和四二年の新規受理人員は,五,七〇〇,七三七人で,四〇年に次ぐ数字となっている。
 そこで,この受理人員の内訳を,刑法犯,道交違反,道交違反を除く特別法犯にわけて,昭和七年以降,原則として三年ごとに,その構成をみたのが,III-5表である。昭和七年,一〇年,一三年は,いずれも刑法犯が受理人員総数の八割弱,各種の選挙違反や兵役法,庁府県令違反等を主とする特別法犯が二割前後という構成となっている。ところが,昭和一六年になると,実数においても,比率においても,刑法犯の減少,特別法犯の増加という現象がみられ,経済統制が強化されて来たことを物語っている。今次大戦直後は,さらにこの傾向が著しく,昭和二二年には,受理人員総数の過半数を,特別法犯が占めるに至った。しかし,昭和二五年になると,道交違反増加のきざしが現われ,二八年以降は,道交違反の急激な増加と,これに伴う比率の上昇,特別法犯の減少と,総数に占める比率の激減という現象を示し,道交違反増加が著しいため,刑法犯は,実数は増加しながら,総数に占める比重は,逐年低下するという結果となって,昭和四〇年には,刑法犯の比率が,わずかに一三・二%,特別法犯三・二%,道交違反が,総数の実に八三・六%を占めるに至っており,四二年に,刑法犯,特別法犯の比重が,わずかに増加してはいるものの,その大勢を変えるには至っていない。