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 昭和41年版 犯罪白書 第三編/第二章/三/2 

2 貧困その他の経済的条件と犯罪

 貧困,失業,生計費の上昇などの経済的条件が犯罪の原因ではないかということは,古くから考えられ,これまでに多くの研究がなされた(なお,この場合,経済的に困窮した者による犯罪と他人の経済的困窮につけ込んだ犯罪の二種のものが考えられるが,ここでは,前者に限定して説明をする。)。そして,そのおもな研究方法としては,犯罪者の生活経済状態のいわば具体的な調査を主眼とするものと,長年月にわたって,物価指数その他国民の生活状態の良否を示すと考えられる経済的指数の変動と,犯罪の発生または検挙人員数の変動とを比較,検討し,両者の間に相関関係の存在を窮めようとするものとの二つがあるように思われる。
 まず,バートは,一九二五年,ロンドンの人口(約四,三〇〇,〇〇〇人)のうち約三〇%が極貧または貧困の階層に属する(そして,その他は中流以上の階層に属する。)という実態調査を根拠として,各非行少年の家庭の経済状態について調査を行なった結果,全非行少年の約五六%が右の極貧または貧困階層に属するという事実を報告した。これに対し,ヒーリーは,かれの調査した非行少年の二七%が極貧または貧困階層に属するとし,グリュックは,かれの調査した非行少年の約七一%の者が経済的に楽ではない家庭(公の資金などから補助を受けているか,補助は受けてはいないがその日暮しのものをいう。)に属するものであったとしている。しかしながら,いま,かりに右バートの所説によるとしても,かれの結論の反面ともいうべき約四四%の非行少年が経済的には中流以上の家庭に属しているという点に注目せざるをえない。と同時に,一部の裁判実務家などが,時おり,とくに少年非行の原因として,「金銭的に恵まれ過ぎている。」という事実を指摘しつつあることにも留意を要するであろう。要するに,生活経済条件は,多くの犯罪発生要因の一つでしかなく,生活困窮のために身を誤る人間の数に比較すれば,裕福でありながら身を誤る人間(とくに青少年)も相当数にのぼるように思われる。
 つぎに,経済的指数の変動と犯罪数の変動との間に相関関係の存在を究明した代表者ともいうべき者は,フォン・マイヤーであった。かれは,一八三五年から一八六一年に至るまでの間のバヴァリヤにおける裸麦価格の高低と一定種類の犯罪数の増減との間におおむね一致した並行関係のあることを証明した。その後,欧米各国においても,またわが国においても,多くの人々が同種の研究を行ない,生活経済の難易を示すものと考えられるなんらかの指数と犯罪数との間に相関関係の存否を究明した。思うに,たとえば,食糧などの生活必需物質を入手することが一般的に困難となれば,当該物質の不法獲得を目的とする犯罪が多発するであろうことは,わが国終戦直後の経験に徴しても,事実と考えられる(もちろん,後述するように,わが国戦後の犯罪多発については,国民道義心の低下などの精神面の問題を無視することはできないが,この点は,ここでは別論とする。)。しかし,この方法による研究については,生活経済の難易を示す指数として何が適当であるかという困難な問題がある。たとえば,フォン・マイヤーの研究当時には,バヴァリヤにおいては裸麦価格が適当なものであったかも知れないが,今日の経済生活は,どこの国でも複雑であって,一つや二つの指数が的確に生活の難易を示しうるかどうかは疑いがある。そして,かりになんらかの適当な経済的指数があるとしても,一方において社会保障制度が整備,拡充されつつある事実を思えば,ある指数の示すと考えられる生活難易が,どの程度まで現実的に国民一般の生活のうえに効果を及ぼすか,また,その時間的速度はどうかというような点も常に考慮しなければならず,結局,この方法による犯罪原因の究明には幾多の困難が伴うものと考えられる。
 最後に,経済条件の変動は,犯罪性の進んだ者(たとえば常習的犯罪者)の犯罪には,ほとんど影響を及ぼさないとする考え方のあることを付言しなければならない。