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 平成 元年版 犯罪白書 第4編/第5章/第5節 

第5節 おわりに

 本年版白書においては,従来の白書で用いた手法に従って統計資料による大量観察等により,昭和の犯罪情勢と犯罪者の処遇の推移と特徴,刑事法や刑事司法制度の変遷等について概括的な考察を行ってきた。もとより,白書の特集としての限られた紙数の中で,この60余年にわたる昭和の犯罪動向と刑事政策を分析・検討することには,おのずから限界があって,基本的な推移の記述にとどめざるを得す,主要犯罪事件を記述する余地はなく,分析の過程において生じた疑問点の解明も,今後の研究に譲らざるを得ないところである。しかし,昭和の時代が去り平成の時代に入るに当たり,この激動の昭和における犯罪動向と刑事政策を概観して,将来の適切な刑事政策を樹立・実行するための参考資料とすることは,十分に意義があると考えられ,その意味において,本年版白書は,我が国が幾多の苦難を乗り越え,今や世界でも最も安全な国の一つといわれるような社会を実現した過程やその施策,すなわち,昭和の刑事政策等の特徴と流れを記述しようとするものであり,平成の世に一層平和で安全な社会を築き上げるため,刑事政策の発展に資する有益な資料を明らかにすることに努めた。
 昭和の犯罪情勢と刑事政策は,社会の一般的動向と同様に,激動の道程を経たのであり,戦前と終戦直後の暗い部分と昭和の後半の明るい部分が対照的に存在する。戦前には,経済恐慌とそれに続く政治不安を経験し,やがて満州事変・日中戦争に至る時代に,そのような社会的情勢を背景にして犯罪が増加していった。既に述べたように,戦前には戦後よりも起訴猶予が多用されていたことからも分かるように,刑事政策における適切な方策も多々実践されていたのであるが,反面,治安維持法によるいわゆる思想犯の検挙と処罰,国家総動員法による国家統制の強化とその違反者に対する処罰,違警罪即決例による軽微な犯罪に対する拘留・科料の多用,思想犯予防拘禁など刑事政策の暗部ともいえる面が存在していたことは事実である。また,終戦直後における経済的困窮と社会的混乱は,我が国の歴史でもかつて経験したことのないほど,凶悪犯や財産犯などの犯罪の激増をもたらし,刑事司法機関での処分や処罰も厳しいものとなった。その後,社会情勢の安定と刑事司法制度の機能の充実整備がなされるに従って,刑法犯は減少するが,薬物事犯等が増加しては減少し,また,交通業過や道交違反は昭和40年ころから,覚せい剤事犯は45年から,万引き・自転車盗などの窃盗,放置自転車の占有離脱物横領など軽微な事犯は50年ころから,それぞれ増加して現在に至っており,少年非行も戦後一貫して多発している。
 このような過程で,警察等は先進諸国と比較してもはるかに高い検挙率を維持し,また,個々の犯罪情勢に応じて検察庁での起訴処分や裁判所の科刑が適切に運用され,犯罪の減少又は増加の抑止のために機能しており,さらに,覚せい剤取締法,道路交通法,刑法の一部改正に見られるように,犯罪情勢に対応する立法や法改正がなされてきた。戦後の刑事訴訟法,少年法,犯罪者予防更生法などの制定は画期的なものであり,戦前の法制やその運用への反省の上に立って,犯罪の規制と被疑者の人権保護のバランスのとれた捜査,公判,処遇等が目指され,また,非行少年に対する保護処分を主眼とする適切な処遇,犯罪者に対する財産刑・刑の執行猶予の多用など社会内処遇が拡大されている。矯正施設の処遇も人道化,科学化,社会化が図られ,再犯の防止に貢献している。戦後の社会環境等の改善に加えて,これらの刑事政策における総合的な施策が効を奏して,世界で最も安全な国の一つといわれる我が国の平穏な社会が実現されたのである。
 しかし,我が国の治安状況が,外国との対比において,比較的良好な現状にあるとはいえ,今後の課題も少なからず存在している。犯罪の上での問題点としては,まず,暴力団組員等による犯罪がある。暴力団関係者は,昭和63年の検挙人員のうち,殺人で25%,強盗で19%,傷害で23%,脅迫で64%を占めるなど犯罪情勢の悪化に大きな影響を及ぼしており,覚せい剤事犯,けん銃等の密輸のみならず,民事紛争に絡む不法行為や適法企業を仮装する違法活動等へと活動範囲を拡大している。また,少年非行は多数発生しており,業過を除く刑法犯検挙人員中の少年の比率は5割を超えており,最近では数は少ないものの,少年による凶悪な殺人等も発生している。覚せい剤事犯は依然として多発しており,国外から密輸された薬物は暴力団の資金源となり,中毒者による凶悪犯罪も犯されている。さらに,外国人による犯罪や外国を舞台にした犯罪など外国と何らかの係わりを有する国際犯罪は,薬物事犯,国際テロ事犯のみならず,凶悪犯や知能犯を含めて少なからず発生しており,今後も,交通・通信手段の発達,国際交流の活発化に伴い,更に増加すると思われるので,捜査共助・犯罪人引渡し等についての国際協力や国際連合等を中心とした犯罪防止等のための活動がますます重要となってくる。また,過激派による爆弾事件やテロ事件は手段が一層巧妙で凶悪化しでおり,この種犯罪の社会に与える不安も大きく,今後の一層の効果的な取締りと厳正な科刑の実現が望まれる。
 次に,戦後は財産刑の中でも特に罰金刑が多く活用されているが,近年の物価及び国民所得の上昇等により,現行法の定める罰金刑の実質的な効果が低下しつつあり,刑法その他の法令により各罪について定められている罰金刑の法定額の上限の見直しその他財産刑の在り方に関して検討すべき問題があると思われる。矯正においては,最近,受刑者の中に暴力団関係者,累犯者特に多数回受刑者,高齢者が増加しており,これらの者について再犯防止のための処遇や他の司法機関での処分等を含めて問題が提起されていると思われる。更生保護の面では,民間の篤志家である多数の保護司が保護観察官との協働態勢の下で保護観察を行っているが,地域社会が弱体化し又は崩壊していく過程で,適切な保護司の確保の必要性,その他保護観察官と保護司の役割分担等で考えるべき問題があるように思われる。昭和の時代には,刑法と監獄法の全面的な改正は実現しなかったが,これらはいずれも明治時代に制定された法律であり,後者については,現代の社会状況,犯罪情勢,犯罪者処遇の実情,刑罰理論,処遇理念等に適合するものとするため,その法改正が必要であると思われ,前者についても,引き続いて全面的な改正のための検討を続けるとともに,社会状況に照らして特に必要性の大きい問題については,順次これに対処するための改正を実現していくことが重要であると考えられる。さらに,少年法についても,少年非行の実情,少年保護の基本理念の変化等を踏まえ少年の権利の保護など適正手続の充実・整備等に関して法改正の要否を更に検討すべきであろう。
 社会全体を見た場合,今後の国民の法意識や価値観の相当な変化にもかかわらず,国民の遵法精神や警察その他刑事司法機関に対する協力関係を今後とも維持できるかどうかという問題が大きい。経済的に豊かな社会を迎えて,都市化・情報化の進展,家族や地域社会の機能の変容等が,少年層にも多大の影響を及ぼし,犯罪・非行の質を変えてゆくことが危ぐされ,一部にその兆しとも見られる特異事例も現れており,これらに対する新たな対応が課題となろう。また,今後とも安定した経済状態を確保することは,平穏な犯罪情勢を保つために必要不可欠であると思われる。
 このように,昭和から平成の時代に引き継がれた犯罪情勢や刑事政策等の中にも,今後の課題として残されたものが少なくない。また,戦前の諸施策等の中には今後の反省の資料とすべきものも含まれてはいるが,戦後の刑事政策を総体的に観察した場合,あの困難な終戦後の激動期を乗り切り,その後の幾多の問題を克服しながら,現在のような世界でもまれな安全な国を実現したことは,高い評価に値すると思われる。
 戦後の急激な工業化・都市化による社会変動を経験している我が国が,工業化・都市化に伴う犯罪の増加に悩む欧米諸国と異なり,比較的良好な治安情勢を維持している理由は何であろうか。我が国の犯罪が少ない理由として,遵法精神に富む国民性,経済的な発展,低失業率,教育の高水準,地域社会め非公式な統制の存在,島国である地理的条件,刑事司法運営に対する民間の協力,銃砲刀剣や薬物の厳重な取締り,高い検挙率で示される効果的な警察活動及び刑事司法機関の適正かつ効果的な機能等が挙げられる。確かに,これらの要因が総合されて,昭和の後半の我が国の犯罪情勢の安定がもたらされたものであったと思われるのであるが,これらの諸要因が絶対的不変なものでないことは前述のとおりであり,「島国である地理的条件」でさえ,各分野での国際化の急速な進展により,その意義は減少を続けている。
 平成の時代の幕開けに当たり,これまで述べたような昭和の犯罪情勢と刑事政策を十分省察して,今後とも,社会全体の中での犯罪抑止要因の増大強化と,犯罪発生要因の抑制・減少のため,各般の努力を続けるとともに,刑事司法の諸機関においても,国民の協力を得ながら,永い世代にわたり,犯罪の少ない安全で住み良い社会を維持できるよう,平成の初頭に当たり,一層効果的な刑事政策の実現のための決意を新たにする必要がある。