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 昭和50年版 犯罪白書 第1編/第1章/第2節/4 

4 手製爆弾・火炎びん等を使用する犯罪

 爆発物使用の犯罪は,その強力な破壊力によって極めて大きな被害をもたらすばかりでなく,事件に全く関係のない第三者にまで被害を及ぼす点で極めて悪質な犯罪である。火炎びん使用の犯罪も,多数の警察官や一般人を死傷させ,官公署,民間の施設や車両を炎上させるなど人的,物的に多大の被害を生じさせる極めて危険性の高いものである。そして,これらの事犯の発生は,社会一般に不安感を醸成し,社会を恐怖に陥れる。
 我が国におけるこれらの事犯の動向を見ると,最近では,昭和44年以降,火炎びんが過激派の集団暴力事犯の主たる凶器として多量に使用されるようになり,また,少数の先鋭過激分子による爆発物使用のゲリラ事犯の多発を見るに至った。
 まず,火炎びん使用事犯の検察庁受理人員等の推移を見ると,I-8表のとおりである。学生らの過激派集団による火炎びん使用事犯は,昭和43年10月の日本大学工学部校舎放火事件(福島地検)を初めとして,その後各地において,大規模な集団的,組織的な不法事犯が繰り返されたが,その際火炎びんが主たる凶器としてしばしば使用された。44年から46年までの3年間に使用された火炎びんの総数は約1万2,000本,押収された火炎びんの総数は約1万7,000本に上った。このように続発した火炎びん使用事犯は,多大の人的,物的被害を発生させ,極めて深刻な事態を呈するに及んで,社会一般にも大きな脅威と不安を与えるに至った。

I-8表 火炎びん使用事犯検察庁受理人員及び火炎びんの使用・押収状況(昭和44年〜49年)

 ところで,火炎びんは,もともと正常な使途の全くない危険なものであるが,従来は,火炎びんの使用,製造,所持等を直接処罰対象とする法令がなく,刑法等の罰則による間接的規制には種々の難点があり,火炎びんに関する不法事犯を的確に処罰することが困難であった。そこで,昭和47年に火炎びんの使用等を直接処罰の対象とする「火炎びんの使用等の処罰に関する法律」が制定され,次いで,火炎びん等の原材料として使用されるおそれのある毒物及び劇物の規制を強化するため,毒物及び劇物取締法の一部改正が行われるなど,火炎びんの使用等に対する規制が一段と強化された。その結果,火炎びん事犯は著しく減少したが,昭和50年には,沖繩海洋博阻止闘争などに関連して火炎びんが使用され,再発の兆しを見せている。この種事犯の今後の動向には引き続き警戒を要する。
 次に,爆発物事犯の発生件数等の推移を見ると,I-9表のとおりである。この種事犯は,おおむね手製の時限爆弾を使用するもので,最近では,昭和44年10月ころから多発するようになった。その後47年までに発生した事犯は,過激派集団が社会不安をひき起こすことを意図して爆弾製造方法などを習得,流布したことが主な背景となっていたものと見られ,現に犯人が判明したものの大部分は過激派による犯行であった。44年8月から9月にかけて,最過激派といわれている赤軍派が武装蜂起の名のもとに爆弾闘争を宣言し,同年10月21日の国際反戦デーにおける赤軍派による東京中野交差点爆弾使用事件を初めとして,同年中には51件もの爆発物事件が連続して発生した。45年にはこの種事犯の発生は比較的少なかったが,46年7月,8月に革共同幹部が「闘争は爆弾時代に突入した」旨の宣言を行い,以後同年内に47件,47年に22件の事件が発生した。

I-9表 爆発物事犯発生件数の推移(昭和44年〜49年)

 昭和48年にはこの種事犯の発生は極めて少数にとどまったが,49年に入ると再び多発し同年の発生件数は37件に上った。同年前半には,少年がいたずらに爆発物を仕掛けるという思想的な背景の認められない犯行が続発していた。ところが,同年8月以降,企業を対象とする爆発物事件が続発し,多数の死傷者を出すなど著しい社会不安を生じさせた。これらの事件は,民間企業に対し強力な時限爆弾をもって攻撃するもので,従来とは異なる様相を呈した。これら一連の企業爆破事件については,第3編第2章第3節で述べる。
 また,爆発物事件の発生に伴い,各地において爆弾テロの予告事件や悪質ないたずら電話事件が多発しているが,このような爆破予告事件は,昭和49年中には3,215件発生しており,特に,東京,大阪,神戸,名古屋,横浜,福岡などの都市部において多発している。